もちろん、葉ちゃんの方へ飛び移るときなら、彼女の顔が見えても不思議はありません。しかし、彼女に完全に背中を向けて、命がけで反対側へ飛んでいるときにも、ごくぼんやりとではありますが、確かに葉ちゃんの顔が、まるで幻のようにテントの空中に浮かび上がるのでした。
「変だなあ」
黒吉がまたそうつぶやきながら、楽屋の向こうの方に目をやると、ちょうどそこを通りかかった葉ちゃんが、
「何か用?」
と、自分が呼ばれたと勘違いしたのか、ふさふさとしたショートヘアを後ろへと手でかきあげながら、近寄ってきました。
彼女の体にぴったりとフィットしたタイツに包まれた、健康的で引き締まった体は、歩くたびにかっこよく動き、また新しく黒吉の目を釘付けにしました。
五の二
「呼んだわけじゃないんだけど……」
黒吉は、自分がほんの少し独り言を言っただけでも、葉ちゃんがそれに気づいて、わざわざやって来てくれることが、たまらなく嬉しくて仕方がありませんでした。
「今、何て言っていたのよ」
「何って、『変だなあ』って独り言を言ったんだよ」
「どうして変なの? 何が――」
「そう言われると困るけど、ちょっと不思議なことがあってね」
「一体何なのよ……。まあいいわ、いじわるね! 私には言いたくないんでしょう。だったらもういいわ!」
葉ちゃんは鼻を鳴らすような声でそう言うと、体をくねくねとさせて、ぷいっとすねてみせました。
黒吉は、時には自分をおどかして楽しそうに笑う、この若くて魅力的な女の子が、どうしてこんなにも人の心を引きつける魅力を持っているのだろう、と深く考えるよりも前に、ただただ彼女の美しさにうっとりと見とれてしまいました。
「言うよ、言うよ! 葉ちゃんに言えないことなんて、何一つないじゃないか。……実はね、僕、葉ちゃんの顔を見るんだ」
「私の顔を?」
「うん。それがね、空を飛ぶ瞬間なんだ。あのブランコでジャンプするときさ。幻って言うのかなあ」
「ええっ、あんなときに? 私なんて一生懸命すぎて、何も考える余裕なんてないわよ」
「そりゃあ、僕だって夢中だよ。だけど、目の前にぽーっと浮かび上がってくるんだ。だから『変だなあ』って言ったんだよ」
「不思議ねえ。……それで、私、どんな顔をしているの? そのとき――」
それは、いかにも女の子らしい質問でした。
黒吉は体をひねって、葉ちゃんの顔をのぞき込みながら言いました。
「こんな顔さ。肌は雪のように真っ白で、目は黒くきらきらと輝いていて、唇はツバキの花びらよりも赤くて可愛らしくて……」
黒吉は、自分の知っている限りの美しい言葉を並べ立てると、
「えくぼが指先を吸い込むように……」
と言って、彼女のふっくらとしたほっぺたを、指先でツンとつつきました。
「痛いわよ!」
葉ちゃんは大げさに顔をしかめてみせましたが、それでもやっぱり嬉しそうに、クックックッと笑いました。
「このきれいな顔が、僕の頭をすっかりいっぱいにしちゃったみたいなんだ」
黒吉は、またわざと真面目な顔をしながら続けました。
「もう、知らないわよ! おだてたって何も出ないんだから!」
そう言うと、葉ちゃんは笑いながら、ステージの方へと走っていってしまいました。
黒吉はうっすらと微笑みながら、葉ちゃんが走るたびにふわふわと跳ねるショートヘアの後ろ姿を見つめていました。しかし、葉ちゃんの姿が楽屋の仕切り幕の向こうに隠れて見えなくなると同時に、また頭の中に大きく広がってきたのは、あの不思議で、少し不気味な幻の姿のことでした。「まあいいや、僕は本当に、葉ちゃんのことばかり考えているんだからね」
その途端、少しお休みしていた楽隊(ジンタ)が、あの耳慣れたにぎやかな音楽を、ジャカジャカと響かせ始めました。
(あ、もう開場のお客さんが入る時間だな)
黒吉は、ポンと自分の太ももを一つ叩くと、ざわざわと伝わってくるお客さんたちの足音を聞きながら、
(さあ、準備をしなくちゃ)
と口の中でつぶやいて、座っていた衣装箱から立ち上がりました。
「黒ちゃん!」
おやっと思って振り返ると、葉ちゃんが、なぜか珍しくとても緊張した顔をして、走ってきました。
「大変よ、黒ちゃん! あなただけ来ていないから、親方がすごく怒っているわ!」
「一体どうしたの?」
「『どうしたの』じゃないわよ! 大変なことが起きたの。親方のあの指輪、知っているでしょう? いつも指にはめている、あの金の指輪よ。あれがなくなっちゃったんだって! 確かにさっきまであったんだから、サーカス小屋の中で落としたに違いないって言うの。お客さんが入る前に探さないと、きっと誰かに拾われてなくなっちゃうでしょう。だから、今までみんなで血眼になって探していたのよ。それなのに、あなただけ来ないんだもの、親方はすっかりご機嫌斜めよ……。でも、どうしても見つからないから、親方はぷんぷん怒っちゃってね、とうとう今、お客さんを入れ始めたの。あなた、すぐに様子を見に行った方がいいわよ」
「そんなことを言われたって、誰も僕を呼びに来てくれなかったんだから、知るわけないじゃないか……」
「そんなこと、今さら言ってもダメよ。ここにあなたがいるって知っているのは、私くらいなものなんだから」
そう言って、葉ちゃんはいたずらっぽく、ずるそうにニヤリと笑いました。
「なんだ、じゃあ葉ちゃんは、わざと僕に教えなかったんだね……。ひどいなあ」
「そんなことないわよ。まあ、とにかく行ってみてちょうだい」
(ひどいなあ。どうして僕に教えてくれなかったんだろう。親方が怒るとどれだけ怖いか、知っているくせに……)
と黒吉は思いましたが、葉ちゃんが話した後に、しっとりと濡れた、色鮮やかな唇からこぼれる言葉を聞いていると、どうしても反対する気にはなれませんでした。
「うん、行ってみるよ……」
黒吉はそれだけ言うと、言いたい不満は胸の中にぐっと飲み込んで、歩き出しました。
(あの指輪は、親方が普段からものすごく大事にしていたものだ。本当になくなってしまったら、絶対に僕に八つ当たりしてくるぞ……)
黒吉は歩きながら、自分のいつもの暗い気持ちが、さらに何倍にも膨れ上がっていくのを感じていました。
親方の部屋に行ってみると、部屋の隅で親方がむすっとした顔をして、ステージの準備のために、自分のシルクハットのほこりをパタパタと払っていました。
そしてその周りでは、衣装部屋や準備部屋(もちろん、ただの布のカーテンで簡単に仕切られただけの場所ですが)を、出番が遅い劇団員たちが、「ちゃんと探していますよ」というアピールをするように、うろうろと歩き回っていました。
(これはまずいぞ……)
黒吉は、親方がシルクハットのほこりを払う手つきが、まるで帽子を叩きつけているかのように乱暴なのを見て、
(よっぽどご機嫌が悪いんだな)
と直感しました。
黒吉は、できるだけ親方の方を見ないようにしながら、こそこそと指輪を探し始めました。
けれど、すでに大勢の人が探した後なのですから、そう簡単に見つかるわけがありません。
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