おどかすなよ」
「ほ、ほ、ほ! 葉ちゃんじゃなくて、がっかりさせちゃったかしら、お気の毒さま!」
そう言って、いたずらっ子のように体全体でクスクスと笑ったのは、黒吉が期待していた葉ちゃんではなく、同じ劇団の女の子、薗道由子でした。
「何がお気の毒なもんか、そんなこと……」
「やだ、隠さなくていいわよ、知ってるんだから。あなた、葉ちゃんとケンカしたんでしょう?」
「うそだよ……」
「うそじゃないわよ。ちゃんと知ってるんだから、私、見てたんだもん。葉ちゃんって本当に変な人ね。私、あなたのことがかわいそうになって、すっかり同情しちゃったわ」
「この、おせっかいめ……」
(大人みたいなこと言うなよ!)
と言い返してやりたかったのですが、今の黒吉には、もうそれ以上しゃべる元気もありませんでした。
黒吉は、こんな悲しいときには、いつまでも、ただ一人だけで静かにしていたいと思ったのでした。独りでいるときなら、一生懸命こらえられる涙も、こうして優しい慰めの言葉をかけられると、かえって熱湯のように胸の中で暴れ出してしまうものだ。
「いいよ、由ちゃん。ありがとう。なんでもないんだよ」
「そう、じゃあいいけど……」
そう言いながらも、由子は何か喉の奥に引っかかっているものを吐き出したそうに、その場に立ち止まっていた。
薗道由子は葉子と親しくはしていたが、彼女ほど美人ではなく、芸の方も目立って上手いわけではなかったので、葉子にばかり心を寄せていた黒吉とは、自然とあまり関わりがなかった。しかし、葉子という存在を改めて見つめ直さなければならなくなった今、由子の登場は、黒吉の心に何らかの波紋を広げるのではないかと思われた。
「黒ちゃん」
「うん」
「あのね、あんたね、悪いことは言わないわ。葉ちゃんなんか、忘れた方がいいわよ……」
「なぜ――」
「なぜって……」
「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないか」
(俺に、葉子は忘れられない!)
「余計なことを言うなよ」
黒吉はそっけなく、早口で言い捨てた。
「でも、でも、どうせあんたが不幸になりそうなんだもん」
「変なことを言うじゃないか。どうせ俺は不幸だよ。――由坊みたいに綺麗じゃないからな……」
「まあ黒ちゃん、そんなこと言うもんじゃないわよ。あんた、あたしを疑ってるの? そんなにひがむもんじゃないわよ」
由子も、自分の言葉に思わず興奮して目を見開いた。
「あんた、知らないのね。やっぱり男の子って、細かいところに気がつかないのね。葉ちゃんの恐ろしい癖、知らないの……」
(葉ちゃんの、恐ろしい癖――)
黒吉は、ぼんやりとながら、思い当たるような気がした。
「恐ろしい癖って……」
「葉ちゃんたら、とっても残酷なのよ。あんなに綺麗な顔をしているくせに――。あんた、気がつかないの?」
(やっぱり、そうか)
黒吉は黙って首を振った。
「とっても凄いのよ。ネズミでも、カエルでも、ヘビでも、平気で引き裂いて殺しちまうの。でも、自分でもあたしにだけ時々言うわ。『あたし、時々血を見ないとクサクサするのよ』って。恐いわ。それに、それに、一ヶ月に一度はきっと、それが激しくなるんだって。そんな時よ、あんたを鞭で打ったのは。えっ、ウソ? ウソじゃないわよ、ちゃんと知ってるわ。そしてあとで、『ああ、さっぱりした』って言うのよ。すごいでしょ、恐いわね。あの人ったら、人がめちゃめちゃに殴られるのが大好きなんだって。あちこちに血がにじんで、ぐったり倒れているのを見ると、すがりつきたいようなんですって。あの人、いつか人殺しをするかもしれないわ。それから、こんなことも言ったわ。『人殺しをするのに、ピストルなんてバカね。あたしなら短刀でえぐってやるわ、すごいでしょうねえ』って。葉ちゃんは綺麗なだけに、そんなことを言って目が光ると、とっても、とっても……黒ちゃん、黒ちゃんてば……」
黒吉は黙って、このおしゃべりな由子のそばを離れると、立て付けの悪い楽屋の床板を小さく鳴らしながら、あてもなく顔見世台の方へ歩いて行った。
顔見世台の下には、町の子供たちが大勢、何とはなしに喋り合いながら、極彩色のペンキ絵に見入っていた。そのペンキ絵には、葉子と黒吉の絡み合った曲芸姿が、まるで別人のように華やかに描かれていた。
(どんなに殴られたって、たとえ殺されたって、俺はやっぱり葉ちゃんが好きだ)
「ちえっ!」
黒吉は、目の前に浮かんだ由子の饒舌な顔を、首を振って払いのけた。
長々と葉子の悪口を言う由子自身の方が、よっぽど悪魔に近いように思われた。
(由公なんか、何言ってるんだい)
彼は無意識に肩をすくめた。
あの暴風雨のような愛撫を、惜しげもなく振りまいた年若き麗魔、葉子は、もうこの虫――黒吉――に対して興味を失ってしまったのだろうか。それとも、葉子一流の執拗ないたずらだったのだろうか。
黒吉の心は、この重大で、最も重大だと思われた問題を解決する前に、彼の目の前に現れた、もっともっと恐ろしい、この世のものとは思えない混迷の中に叩き込まれてしまったのだ。
――空に浮かぶ夢――
それだった。
葉子との問題のために、一時、古びた写真のように生彩を失っていた、あの空に浮かぶ幻像であった。
それが蘇ってきたのだ。生々しい現実味を帯びて、蘇ってきたのだ。
白昼、大勢の観客を前にして空を飛ぶ時、ふと浮かんだあの葉子の顔を発端として、絶対に見えるはずのない「指輪」の発見。
それらが、黒吉自身を「狂ったのではないか」と疑わせるほどの、あの「白昼の妖夢」となって、恐ろしいほどの明瞭さで、空を飛ぶ黒吉のまぶたの裏に飛び散るのだった。
黒吉は、あの葉子とのことを胸に抱えていようがいまいが、日に少なくとも一度は、空を飛ばなければならなかった。空を飛んでいる時の彼――それは、神経の一本たりとも無駄にはできない、限界まで張りつめた鋼鉄のワイヤーのようにピンと伸びきった、澄み切った無我の瞬間です。
(それなのに、どうしてのんきに夢なんか見てしまうんだろう)
これは、すぐには解決できそうにない問題でした。
(脳みそにシミでもできたのかな)
そんなことを真面目に考えても、不思議ではないほどでした。
その幻は、とんでもないものが浮かび上がるのです。
名も知らない雑草がぐんぐんと伸びて、パッと巨大な深紅の花が咲いたかと思うと、見る間にポトポトと血が滴るように花びらが散ってしまったり、あるいは、奇妙な岩や怪しい石が重なり合う不思議な庭園の中を、自分がトンボのようにスイスイと飛んでいたりします。
または、ああ、自分はいつの間にネズミになってしまったのだろう。
真っ暗で、生暖かい地面の底を、どこまでもどこまでも掘り進まなければならないのです……。
ですが、こんな夢ばかりならまだいい。
そんな、たわいないものばかりなら、何も恐れることはありません。
ただの夢、ただの幻として片付けることができます。
しかし、あの「指輪の発見」はどうでしょう。
絶対、断然、どうあがいても見えるはずのない事実が、ありありとまぶたの裏に浮かぶのです。
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