「どう? 痛い?」
葉ちゃんは、黒ちゃんの顔をのぞき込みました。
「ううん」
黒ちゃんは、慌てて頭を振りました。
「痛いもんか!」
「だって、体が震えていたんだもの。なめた方が早く治るんだって、言ったでしょう?」
傷口につばをつけることは、サーカス団の子供たちの間では、ごく当たり前の、一番昔ながらの手当ての方法でした。
でも、葉ちゃんは、ただ本当に「優しさ」だけでなめてあげたのでしょうか――。
少なくとも黒ちゃんは、彼女が親切でやってくれたのだと信じていました。
けれど、さっきの不思議な様子を思い出してみると、恐ろしいことに、このかわいい女の子は、血のにじんだ痛々しい傷跡を見て、ちょっと残酷なドキドキ感や、「なめてみたい!」という強い衝動を感じていたのかもしれません。
いや、確かに彼女は興奮していたのです。ただ傷につばをつけるだけなら、わざわざ舌でなめる必要なんてないはずですから――。
それでも、黒ちゃんの胸は、嬉しさと幸せな気持ちでいっぱいになっていました。
「葉ちゃん、もういいよ。もう痛くないからね」
葉ちゃんは、黙って顔を上げました。
「僕、葉ちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「なあに?」
「何って……どうして僕みたいに、かっこ悪くてブサイクなやつと遊んでくれるの?」
「かっこ悪くなんてないわよ。私、あなたのことが好きだもの。だって、すごく優しいんだもん。義公(よしこう)みたいに色白で、そのくせ威張っている奴なんか大嫌い!」
義公というのは、同じサーカス団にいる男の子の団員で、とても顔立ちの整ったかわいい美少年でした。
黒ちゃんは、葉ちゃんの口からその名前を聞くだけでも、なんだか嫌な気分になりました。
「……それにさ、義公ときたら、はしごの上で私を受け止めるとき、わざとぎゅっと抱きしめてくるのよ」
黒ちゃんの頭の中に、義公の生意気そうな顔が浮かび上がりました。
(ちくしょう……!)
彼は、その幻の顔を殴り倒すかのように、心の中で怒鳴りました。
そのとき、黒ちゃんの心の中には、子供とは思えないほどの激しい「ジェラシー(嫉妬)」の火花が、バチバチと飛び散っていたのです。
「葉ちゃん、僕は死んでも義公なんかに負けないよ!」
黒ちゃんはそう言葉を吐き出すと、傷の痛みも忘れて、勢いよく立ち上がりました。
「本当に負けないでね。あなたがこのサーカス団の主役になったら、私、すごく嬉しい。……大きくなったら、お嫁さんになってあげてもいいわよ」
「お、お嫁さんに……?」
さすがの黒ちゃんも、子供らしい顔を、恥ずかしさでパッと真っ赤にして、葉ちゃんを見つめ返しました。
「本当よ。……嘘だと思っているの?」
葉ちゃんは、むきになって口を尖らせました。
「よし! じゃあ、ここで約束しよう」
黒ちゃんは照れくささを隠すようにそう言うと、小指を差し出しました。
そうして二人は、明るい見晴らし台の上で、太陽の光をいっぱいに浴びながら、指切りげんまんという、いかにも子供らしい方法で、固い固い約束を交わしたのです。
――この男の子と女の子の約束が、これから先、どんな未来となって二人の前に現れるのでしょうか……。
それはまだ誰にも分かりません。けれど、このどこか暗くてしつこい性格の男の子と、ちょっと怖いことに興奮してしまう女の子の間には、普通のハッピーエンドなんて、とても待ち受けているとは思えそうにありません。
―― outskirts(でも)、それはずっとずっと先のお話です。
今、見晴らし台の上で太陽を浴びて立っている黒ちゃんの心は、あふれんばかりの幸せと、大波のような喜びで、いっぱいに満たされていました。
そして、彼の血のにじむような激しい練習は、さらにエスカレートしていきました。彼は自分の体を一つの肉の塊のようにして、冷たい床の板の上に何度も激しく叩きつけ、のたうち回りました。
それと同じように、葉ちゃんの、黒ちゃんに対する「優しさ」や「お世話」も、どんどんエスカレートしていきました。
その秘密のやり取りがどんなものだったのかは、二人だけの秘密でした。けれど黒ちゃんは、彼女の唇の裏側に小さなホクロがあることを見つけましたし、夜の葉ちゃんのてのひらが、いつも汗でじっとり濡れていることも知っていました。
あるときは、衣装部屋の鏡でそっと自分の肩の傷を見てみると、不思議なことに、その傷跡が小さな唇の形に赤く血がにじんでいるのを見つけました。――まるで、葉ちゃんがそこを強く吸い付いたのではないか、と思えるような跡でした。
でも、そんな少し不気味な出来事とは裏腹に、黒ちゃんの曲芸の腕前は、みるみるうちに上達していきました。
命がけで、いつも心の中で「もっとやるんだ!」と自分を奮い立たせる激しい練習は、あの不器用で、逆立ちすらできずに親方(団長)を怒らせていた頃とは、もう比べものにならないほど凄まじいものでした。
柔らかくしなやかに伸びるようになった彼の体は、どんな難しい技も危なげなくこなし、見ているお客さんたちをうっとりさせ、大きな拍手を巻き起こしました。
やがて「カラスの黒吉」という名前は、スターの「貴志田葉子」の名前と並んで、サーカスの宣伝チラシに、少年少女の人気スターとして大きく印刷されるようになったのです。
黒ちゃんは、大好きな葉ちゃんと自分の名前が並んでいるのを見ただけで、言葉にできないほど嬉しくなりました。
新しい町に着いて、サーカス団のみんなで宣伝のために町中をパレードするとき、黒ちゃんと葉ちゃんの二人だけは、一緒にかわいい小さな車に乗って行列に加わりました。そのとき、黒ちゃんは顔に真っ白なお化粧(白粉)を塗っていましたが、その下で、どれほど胸がいっぱいで、夢見心地だったことでしょう。
彼は、自分の芸に対してこれまでにない強い自信を持つようになると同時に、心から離れない強いこだわりを――ちょうど、葉ちゃんに対して感じているのと同じような、強い気持ち――を感じるようになりました。
黒ちゃんは、昔は凄腕の芸人だった源二郎おじいさんに、技のコツや呼吸の仕方を教えてもらいながら、ついに、もっと恐ろしい大技の練習に取りかかることにしました。
それは、高いサーカステントの天井から、両端にぶら下がった二つの空中ブランコを使い、一方のブランコから、もう一方のブランコへと飛び移るというものでした。言葉で言えば簡単ですが、目がくらむような高い空中で行うこの離れ技は、まさに命がけの、一か八かの大冒険だったのです。もし、ほんの一瞬でも手を滑らせたら、はるか下の冷たい地面に、まるで腐ったイチジクが地面に叩きつけられたような、真っ赤な血の花を咲かせることになってしまいます。
四
そんな、子供にしてはあまりにも激しく、色々なことが起きる毎日の中で、黒吉(くろきち)は一日中、曲芸の練習と葉(は)ちゃんとの時間に全てを捧げるようになっていきました。いつの間にか、いくつもの出来事が思い出となり、彼はもう十六歳の少年になっていました。
けれど、この長くて苦しい練習の日々は、幸いなことに葉ちゃんがいつも優しく励ましてくれたおかげで、決して退屈なものではありませんでした。それどころか、その努力は決して無駄ではなかったのです。
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