初級翻訳・夢鬼 第8話

夢鬼

 彼はすでに、このサーカス団で誰もが認める、文句なしの花形スター曲芸師になっていました。
 十六歳といえば、サーカスの世界ではもう立派な一人前の大人です。
 その上、他の誰にもできないような、空を飛ぶ恐ろしい大技を自分だけの得意技にしてしまったのですから――。

 そして、ここで忘れてはいけないのが、葉ちゃんのことです。
 葉ちゃんも、いつの間にか体つきがふっくらとして、大人っぽく成長していました。体からあふれるラインは白く、弾むような若さに満ちています。
 彼女のそばを通り過ぎるとき、ふと感じるかすかな香りは、彼女がもうすっかり大人の女性になったことを物語っていました。
 もともと美しかった葉ちゃんの顔立ちは、年を重ねるごとに、ますます吸い込まれるような不思議な魅力を持つようになっていきました。
 真っ白で広いおでこに、首を振るたびにバサッとかかる真っ黒な髪の毛は、まるで海の中に揺れる美しい海藻のようでした。
 明るく輝く瞳と、形の良い鼻は、見ているだけでうっとりするような美しさです。そして、かすかに開いた赤い唇からのぞく、光を反射してキラキラ輝く白い歯は、見ているお客さんたちの心をわしづかみにして離しません。

 こんなに美しい葉ちゃんが、どうして、あんなに不細工な顔をした黒吉にばかり優しくするのでしょうか――。
「葉ちゃんも、物好きだよなあ。いくら芸が上手くなったからって、あんな真っ黒な黒公(くろこう)なんかと仲良くしなくても……。他にもいい男ならいくらでもいるだろうに」
 ピエロの仙次(せんじ)が、おかしなメイクをしたまま、あごをなでて言いました。
「ははは。……ここにはお仙(せん)様っていうイケメンがいるのになあ」
「全くだよ」
「へへっ、調子に乗るんじゃねえよ」
 冗談まじりの会話でしたが、これは団員たちの間で、もっとも興味深くて、そして不思議なナゾでした。
 仙次の言い方からすると、みんなは「黒吉の芸が上手くなったから、葉ちゃんが気に入ったんだろう」と考えているようで、あの子供の頃の、二人だけの不思議な出来事については、誰も知らないようでした。
「だけどさ――」
 仙次はまた真面目な顔になって続けました。
「こんな話を聞いたぜ。黒公のやつが俺に言ったんだ。『俺は葉ちゃんと結婚するんだ。葉ちゃんがそうしようって言ったんだぜ』って自慢しやがるんだ。……なんだか面白くないよなあ」
「本当かよ。……今の二人の様子を見てると、あながち嘘じゃないかもしれないぞ……」
「バカ言え!」
 突然、口を挟んだのは義公(よしこう)でした。彼は、黒吉にスターの座を奪われ、大好きだった葉ちゃんまで奪われてしまった、あの美少年です。
「そんなことあるもんか! 僕はちゃんと知ってるんだ。黒公のやつ、ちょくちょく葉ちゃんにぶたれてるんだぜ」
「えっ、本当か……?」
 そこにいたみんなは、思わず義公の興奮した顔を見つめました。

四の二

 義公は、いきなりみんなの注目を浴びて、かわいい顔を真っ赤にさせながらも、すぐに続けました。
「本当だよ。僕ははっきり見たんだ。それも、ムチで叩かれていたんだぜ!」
 誰も、返事をする者はいませんでした。
「……だけど、だけど黒公のやつ、平気な顔をしてるんだ。それどころか、喜んで叩かれてるんだよ。葉ちゃんとニヤニヤ楽しそうに話しながら、叩かれてるんだぜ……」
 そう言うと、義公も不思議そうに首をかしげました。
 もちろん、今これを聞いた仙次や他の団員たちに、その不思議な「喜び」の理由なんて、わかるはずがありませんでした。

 喜び――。そう、それは恐ろしい楽しみでした。
 葉ちゃんの美しい体の中には、黒吉の激しい練習によって作られた、血と肉と骨がぶつかり合うような激しい刺激が、空を切るムチの音とともに生々しくよみがえり、彼女を甘い夢の中へと誘うのでした。
 そして黒吉もまた、この乱れ飛ぶムチの下で、ちっとも嫌がらずにニコニコとしていました。
 彼は、目の前で荒れ狂う、美しくて激しい野獣のような葉ちゃんの姿を見て、さらに新しい、熱い気持ちを感じていたのです。

 この嵐のような激しい時間が終わると、そのあとは雨のような優しい愛撫(あいぶ)の時間がやってきました。
 黒吉は、葉ちゃんの汗ばんだ柔らかい手のひらを肩に感じると、胸には彼女の熱い吐息と、柔らかい体の感触を受け止めました。
 それはもちろん、薄い衣装越しではありましたが……。
 黒吉は、すぐ近くにある葉ちゃんの瞳の中に、自分の不細工な顔が映っているのを見つけて、無意識にハッとして目をそらしました。
 けれど、「あの瞳の中に映った自分の顔の中に、また葉ちゃんが映っているんだ」と思うと、もう一度のぞき込んでみたい気持ちになりました。
「葉ちゃん……」
 彼は口の中でそうつぶやくと、思い切り彼女を抱きしめました。
 けれど、いくら力を込めて抱きしめても、彼女にはちっとも堪えていないんじゃないかと思えるほど、葉ちゃんの体は、むちむちとした力強い弾力に満ちあふれていました……。

――こうした不思議な遊びは、誰にも見つからない暗い場所で、こっそりと行われていました。
 そして、もう一つの夢のような時間は、大勢のお客さんの目の前で行われることになったのです。それこそが、二人の大がかりな曲芸(サーカス)だったのです。

にぎやかなジンタ(サーカスの楽隊)の演奏が終わると、まるでつむじ風のような、お客さんたちのものすごい拍手に迎えられて、体にぴったりとフィットした桃色のタイツを着て、黒いベルベットの飾りマントを羽織った黒吉と、同じ格好をした葉ちゃんが、手を取り合ってステージに現れました。

そして、その黒いベルベットのマントを、真っ赤な裏地をパッと見せながらかっこよく脱ぎ捨てると、テントの天井の両端から一本ずつぶら下がっているロープに、ギュッと手をかけました。

そう思った瞬間、二人はまるで上から吸い上げられるように、並んでスルスルと登っていったのです。

そのロープの先には、まるでクモの巣のように複雑に組まれた丸太の間から、紅白に編まれたロープで吊るされた、いかにもサーカスらしいシンプルなブランコが、一つずつぶら下がっていました。

お客さんたちがハラハラしながら見上げている間に、身軽な二人はあっという間に、それぞれのブランコまで登りつめていました。

それと同時に、天井裏にいる助手たちが、二人が登ってきたロープを大急ぎで巻き上げました。はるか下にあるステージでは、ピエロの格好をした仙次が、慣れた口調で語る声が、広いテントの中で、とても遠く離れて吊るされている二人の耳にも、途切れ途切れに聞こえてきました。

四ノ三

「ええー、皆様……ただいまより、命がけの大冒険が始まります……! ブランコからブランコへの大ジャンプ……! あの美しき少女が見事にキャッチいたしましたら、皆様、大きな拍手をお願いいたします……!」

その途切れ途切れのセリフを聞きながら、黒吉がはるか下のステージを見下ろすと、ピエロの仙次は、おかしなジェスチャーをしてお客さんを笑わせていました。

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