視力が弱まってしまった左目だけで、遠いのか近いのかもよくわからない病室の天井をじっと見つめていると、その中に、ぽっかりと、少し表情をこわばらせた「女の人」の顔が映りました。
(葉ちゃん!)
霧がかかったような視界がもどかしく、パチパチと何度も瞬きをしましたが、やっぱり薄いベールを透して見ているように、ぼんやりとしか見えないのでした。そして、その病室全体が、急に生暖かくゆがんで見え始めると、ぽろりと熱い涙がこぼれて、目のまわりの包帯にすうっと吸い込まれていきました。それと同時に、まわりがパッと真っ暗になりました。
(あれ、ぼく、泣いていたのかな……)
そんなことを思いながら、その「女の人」の顔をじっと見つめてみましたが、目がよく見えないせいか、どうしても葉ちゃんではないような気がします。
(看護師さんかな……)
とも思いましたが、その顔はどこかで見たことがあるような気がしてなりませんでした。
(もし初めて会う看護師さんなら、知っているわけがないんだけどな……)
そうして目を閉じると、もうあれこれと考えること自体が、だんだんとおっくうで、面倒くさくなってきました。
目をつぶっている黒吉の耳元で、その「女の人」が何かをボソボソとささやいたようでした。けれど、それが何と言っているのかはよく聞こえなかったし、「聞き取ろう」とするのも、体がだるくて仕方がありませんでした。
ただただ、体中がまるでひび割れてしまったかのように熱く、ズキズキとした痛みに苦しむばかりでした……。
……それから一週間以上がすぎたころでしょうか。もともと人一倍体が丈夫だった黒吉は、みるみるうちに元気を取り戻していきました。
そして、やっと声を出してしゃべれるようになると、真っ先に尋ねたのは、やっぱり大好きな「極東サーカス団」がどうなったかということでした。
けれど、様子を見にやってきたお医者さんが、気の毒そうに小さな声で返した言葉は、黒吉をふたたび、深い深い谷底へと突き落とすようなショックなものでした。
「あのサーカス団はね、解散してしまったんだよ……」
お医者さんのその言葉は、あのテントのてっぺんから真っ逆さまに落ちたときよりも、もっともっと激しいショックと、深い絶望を黒吉に与えました。
「先生、ぼく、助かるんでしょうか……」
「大丈夫だよ。本当に運がよかったんだ。落ちた場所が、やわらかい砂の上だったからね」
「……」
「どうしたんだい? どこか痛むかね」
「ううん、ちがうんだ。ぼく、いっそのこと死んじゃったほうがよかったな。そのほうが、よっぽどすっきりしたや……。サーカス団がなくなっちゃったら、これからどうやってご飯を食べていけばいいかわからないし……」
(それに何よりも、大好きな葉ちゃんと離ればなれになっちゃうんだ……)
「……それに、それにぼくは字もろくに書けないし、読んでくれないから、雇ってくれる人なんてどこにもいないよ……」
お医者さんが他の病室へ行ってしまったあとも、黒吉はベッドの上で、たった一人でボソボソとつぶやき続けました。
(だけど、待てよ……?)
いったい、だれが自分をこの病院に入院させてくれたのでしょうか。
(サーカス団の団長さんかな……?)
でも、親方にそんな余分なお金があるわけがありません。もしお金があるなら、サーカス団を解散させるはずがないからです。
(じゃあ、いったいだれだろう……?)
もちろん、黒吉には貯金なんて一銭もありませんでした。もらったわずかなお給料は、葉ちゃんに喜んでもらうために、ほとんど全部使い果たしてしまっていたからです。
(こんなに親切にしてくれる人は、いったいだれなんだろう……?)
そう考えたとき、(もしかして、入院したばかりのころ、夢の中でぼんやりと見た、あの「女の人」かな……?)と思い当りました。でも、それが「だれ」なのかがわかりません。
(もし葉ちゃんだったらいいな……)と胸をときめかせてみましたが、そもそもあの顔は葉ちゃんではなかった気がします。それに、お買い物好きの葉ちゃんが、そんな大金を持っているはずがありません。
それでも、だれだかはわからないけれど、黒吉はなんだか少しだけ元気が出てきました。
(ぼくのことを心配して、助けてくれる人がいるんだ……)と思うと、つらく厳しいサーカス団で育ってきた黒吉にとっては、心の中にぽっと温かい灯がともるように感じられました。
そして、その人に心から「ありがとう」とお礼を言いたいと思いました。
大ケガをしているというのに、黒吉の心は不思議とウキウキと弾むのでした。
八の二
いつものように、またお医者さんが様子を見に病室に入ってきました。
「具合はどうだい……?」
分厚い近視メガネの奥で、おじいちゃんお医者さんがやさしく微笑みました。
「はい、だいぶよくなりました」
「そうか、それはよかった。順調で何よりだね」
「あの、いつごろ退院できるんでしょうか……」
「まだまだ。そんなに慌ててはいけないよ。のんびりしていなさい」
「でも、でも、ぼくはお金がないんです……」
「はははは! 君、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。ここは『施療院(せりょういん)』という、お金のない人を無料で助ける病院だからね」
「せりょういん……?」
黒吉にはその言葉の難しい意味はよくわかりませんでしたが、(とにかく、お金があまりかからない場所なんだな)と見当をつけることができました。
そして、「じゃあね」と部屋を出ていこうとするお医者さんに、黒吉は呼びかけました。
「先生、どこか他のサーカス団を知りませんか?」
「おや、どうしてだい?」
おじいちゃんお医者さんは振り返りました。
「だって……ここを出たら、食べていかなきゃならないから……」
黒吉は、すがるような目でお医者さんのメガネの奥を見つめました。
「君……まだあのサーカスの曲芸をやるつもりなのかい? ……その片方の足だけで?」
「えっ……!」
黒吉は、頭をガツンと殴られたように、がく然としました。
「片足だって!?」
この一言は、まさに青天のへきれき、思いもよらない大ニュースでした。
黒吉は、わけのわからないゾッとするような恐怖にブルブルと震えながら、腕の痛みも忘れて、自分の胸からお腹、お腹から腰へと、手でさすってみました。
そして、腰から下へ……。ああ、腰から下をいくらなでようとしても、黒吉の手はそこまで来ると、ストンとシーツの上に落ちてしまうのでした。
ああ!
(ぼくの右足がない!)
(ぼくには、もう右足がなくなっているんだ!)
何重にも巻かれた分厚い包帯の下で、額にはねっとりとした冷や汗がにじみ、体中の血がスーッと引いていくのがわかりました。
まわりの空気がすべて毒ガスに変わってしまったかのように、黒吉は息が苦しくて苦しくて仕方がなくなっていきました……。(ぼくは、体が不自由な人間になってしまったんだ……)
いったい、これからどうやって生きていけばいいんだろう。あまりにも残酷な自分の運命に、涙も出ないほど悲しくなりました。
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