初級翻訳・夢鬼 第16話

夢鬼

(ダメだ――)
黒吉は蒼白な額を、片手で拭いました。
(ダメだ、ダメだ……)
どうしたことか、今日に限って、あの空に浮かぶ「白昼の夢」が映らないのです。
(俺に、予言の力がなくなっちまったのか……)
あれほど恐れていた「白昼の妖夢」が、かえって期待に胸を膨らませていた今日の黒吉には、どうしたことか現れてはくれませんでした。
(よし、もう一度だ)
もつれるようにして、ブランコに足先を絡ませて垂れ下がった葉子の、柔らかい手に吊るされ、ぶらりぶらりと天空で揺られながら、逆流する血潮の中で黒吉は喘ぎ喘ぎ考え続けました。
「グワ……」
と張り裂けそうな葉子の喉の不気味な音を、一瞬のうちに遥か後ろへ置き去りにして、黒吉は一転すると、元のブランコをバシッと掴みました。一呼吸おいて、グルッと尻上がりでブランコに器用に腰を下ろすと、遠く下の方から沸き起こった拍手の音に誘われて、一度に全身がびっしょり濡れるほどの汗が吹き出してきました。
ですが、黒吉は汗を拭うのも忘れていました。
(ダメだ――)
「夢」は浮かびませんでした。
視野はまるで暗転した舞台のように真っ暗でした。それだけに、なおのこと「次の場面」が覗きたかったのです。
(吉か、凶か――)
やがて気づいたように、するすると綱を伝って降り、楽屋に帰っても、そのことばかりが頭全体を占領していました。

日が暮れ、火が灯り、そしてまた一つ一つと明かりが消えていきました。
既に興行は終わり、あたりは深閑としていました。
何時頃だったでしょうか、一度は寝床に入った黒吉が、スックと起き上がりました。
黒吉の目は、何かに憑かれたように、異様な光を宿していました。黒吉は、どんなに眠ろうとあせっても、どうしても眠ることができませんでした。このサーカス団の未来は、自分と葉子の未来に深くつながっています。明日という日が、いったい「良い日(吉)」になるのか、「悪い日(凶)」になるのか――。

良い日なら、それでいい。
でも、もし悪い日なら……。
(たとえこのサーカス団が解散したって、俺は絶対に葉子と離れないぞ……)
(もし別れなければならないなら、いっそのこと、葉ちゃんをこの手で……)
そこまで激しく思いつめるほどでしたが、やっぱり「明日」のことが気になって仕方がありませんでした。
ふつうなら、明日のことなんてどうしようもないはずです。けれど、幸か不幸か、黒吉はどういうわけか「未来をのぞき見る力」を身につけてしまっていたのでした。それは恐ろしい「未来」へのバチあたりな行為だったのかもしれません。

……とうとう我慢できなくなった黒吉は、誰にも気づかれないように、こっそりと布団を抜け出しました。そして、足音を忍ばせながら、高いテント小屋の天井へと登っていったのです。
上まで登りきってみると、そこはいつもとはまったく違う、不思議な景色が広がっていました。
だれ一人いないガラリとした客席は、白々と冷たく静まりかえり、頭の上では、テントのすき間から入り込む夜風が、パタパタと音を立ててはためいていました。
はるか下の方、まるで深い谷底のように見えるステージには、黄色っぽい小さな電球がたった一つ、かすかな光の輪を作っているだけでした。

黒吉は、上に巻き上げられていたブランコを下ろすと、身軽に飛び乗りました。そして、一つ、二つと数えるように、一歩ずつ力を込めて揺らし始めました。
ブランコが描くカーブは、だんだんと大きくなっていきます。スピードが上がるにつれて、静まりかえっていたテント小屋は、ギシギシとびっくりするような音を立ててきしみ始めました。

ふと、下をのぞき込んでみると、パジャマ姿の葉子と由子がいました。いつの間にか目を覚ましたらしく、何か口をパクパクさせながら、手を振って見せていました。
それがどんな意味なのか、黒吉にはわかりませんでしたが、コクリと一つうなずくと、今度は目を閉じて、さらにブランコを力強くこぎ続けました。

「ヤッ!」
叫び声のような気合いの声を残して、黒吉は暗い小屋の空中へ、まるで弾丸のように飛び出しました。

「ああっ!」
その瞬間、黒吉は恐ろしいミスに気づきました。
いつもなら、助手の人が向こう側のブランコをちゃんと下ろして待っていてくれるはずです。けれど、こんな夜中に助手がいるわけがありません。それに黒吉は、自分の未来のことで頭がいっぱいになっていて、自分が飛び移るための「向こう側のブランコ」を下ろしておくのを、すっかり忘れていたのです!

(しまった!)
そう思った瞬間、黒吉の視界の片隅で、高いところに巻き上げられたままのブランコの金具が、チカッと冷たく光りました。

「グワッ!」
黒吉は空中でありったけの力を振り絞り、体をひねりました。しかし、そんな抵抗もむなしく、すべては手遅れでした。
黒吉の体は、恐ろしい悲鳴をあげるようにして空中を何度も激しく回転しながら、ものすごいスピードで、不気味な暗闇の底へと、一直線に真っ逆さまに落ちていきました。

由子は、
「あっ……」
と声を漏らしたきり、顔からすっかり血の気が引いてしまいました。よろよろと座り込むと、頭をひざの間に抱え込んで震えるばかりです。あの気の強い葉子でさえ、一瞬、ハッとして目をそらしてしまいました。

それは「落ちた」というよりも、固い地面に「叩きつけられた」という方がふさわしいほどの、すさまじい衝撃音でした。
黒吉は、うめき声一つあげることもできませんでした。

次の瞬間、葉子は息を切らせて駆け寄りました。そして、地面の砂の上に、まるで貼りついたようにぐったりと倒れている黒吉の痛々しい姿をじっと見つめました。やがて、彼の上半身をそっと抱き起こすと、小さな声でつぶやいたのです。
「黒ちゃん、黒ちゃん、すごかったわよ……ねえ……本当にすごかったわ……」
指先を震わせ、まるで夢でも見ているかのように、うっすらと口を開けたまま、高い高いテントの天井を見上げていました。

八

長い長い、真っ暗な針地獄の中で苦しみ、もがき続けたあと、ふと気がつくと、黒吉は消毒薬のツンとするにおいが漂う、小さな病院の片隅に寝かされていました。
(俺は、まだ死んでいなかったのか……)
夢か現実かわからない頭で、そう思いながら最初に気づいたのは、自分の顔も頭も、体全体が分厚い包帯でぐるぐる巻きにされていることでした。わずかに左の目と、口元だけが外に出ている状態です。

すると、見る見るうちに頭がクラクラとしてきて、それまで忘れていた激しい痛みが、急にジクジクとよみがえって押し寄せてきました。黒吉は耐えきれず、再び深い深い眠りの底へと引きずり込まれていきました。

……それからまた、どれくらいの時間がたったでしょうか。
煙のように、ぼんやりと、
(葉ちゃんの顔……)
が頭に浮かび、ハッと目を開けました。けれど、体は相変わらずベッドに釘付けにされたように、ピクリとも動きません。痛みと、ゾクゾクするような寒気が混ざった苦しさが、ドクドクと脈打つ血に乗って、足の指先まで染み渡っていきました。

「葉ちゃん……」
うわ言のように名前をつぶやいてみても、唇の端がかすかに震えるだけでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました