この古い練習機では、パイロットの命令を聞くために、耳に特別な管をあてていなければなりません。
「おーい!」
ものすごく大きな声が、蚊の鳴くような小さな音になって、黒吉の耳に届きました。
周りのエンジンの音がうるさすぎて、声が大きいのか小さいのかもよくわからないほどでした。
「北東の風が吹いているから……飛行場が右に見えたら飛び降りるんだ! そうすれば、ちょうど飛行場まで流されていけるはずだ……。あともう少しだぞ……いいか、おーい、用意しろ!」
パイロットの声が、途切れ途切れに聞こえてきました。
黒吉は、静かに耳の管を外し、体を固定していたベルトを外しました。
そして、背中にしっかりと背負ったパラシュートを、手を回してなでながら、そっと目を閉じました……。
まぶたの裏には、何も映りません。
怖くもありませんでした……。そして、また静かに目を開けると、前にいるパイロットがゴーグルをキラリと光らせて振り返り、手を振っていました。
地面にいる人たちの目には、飛行機がキラッと光って見えました。
すると、その機体から、ゴミのような小さな点がポロッと一つ、こぼれ落ちたのです。
(黒吉が飛び降りた!)
――そのころ黒吉は、泳ぐような格好で銀色の翼から離れ、真っ暗で、つかむものも何もない世界を、どこまでも、どこまでも落ちていきました。激しく空気がはじけ、体が大きくゆさぶられる中、色や感覚さえもわからなくなった黒吉の頭の中に、一瞬、不思議な虹のような火花がパッと飛び散りました。すると次の瞬間、そこに見覚えのない、かわいらしい女の子の顔が現れたのです。その子は静かにほほえみながら、じっと黒吉を見つめていました。
(だれだろう……?)
もう一度よく見ようとして、グッと力をこめて体をねじった途端、足元でダイナマイトがドカンと爆発したような、ものすごい音がしました。それと同時に、黒吉は強烈な力で数十メートルも上へとつり上げられ、空中でめちゃくちゃに振り回されるような感覚におそわれました。
パラシュートが開いたのです。
黒吉がグッと体をねじった瞬間、無意識のうちにパラシュートを開くためのひもを引っ張っていたのでした。
(もしあのまま夢心地になって、ひもを引くのを忘れていたら……)
もちろん、真っ逆さまに地面にたたきつけられていたことでしょう。
力強いひもに支えられてふわふわと宙に浮きながら、黒吉は、さっきの不思議なまぼろしに見とれていた自分を思い出し、ゾッとして背中に冷たいものが走るのを感じました。
おそるおそる下をのぞいてみると、もう地面はすぐそこまで迫っていました。畑の中に立っている一本の松の木が、まるで沼の中に生えている藻のように、くねくねとゆれながら自分の方へ伸びてくるように見えました。
九ノ四
黒吉が地面に降り立つと、研究所の人たちが心配そうな顔をして駆け寄ってきました。けれど黒吉は、だまったまま松葉杖を受け取ると、みんなを振り切るようにして、あてもなく広い飛行場をピョコリピョコリと歩きだしました。
頭の中は、さっきの「まぼろしの中の女の子」のことでいっぱいでした。
(一体、だれだったんだろう……)
「あっ!」
彼はギクンとして立ち止まりました。
(あの、あの葉ちゃんじゃないか!)
「そうだ、葉ちゃんだ。たしかに葉ちゃんだ……」
あの虹の中に見えた葉ちゃんは、はっきりとは見えませんでしたが、どうやら「結綿(ゆいわた)」という、かわいらしいリボンを使った大人っぽい髪型をしていたようでした。
(どうしてだろう?)
目の前に広がる終わりのない飛行場のように、大きな疑問がわいてきました。
(あまりにも葉ちゃんのことばかり考えていたから、そんな夢を見たのかな……)
それにしても、葉ちゃんがあんな髪型をしていたことは一度もありません。それなのに、どうしてあんな姿がまぼろしに見えたのでしょうか。
(空を飛んでいるときに見る夢は、未来を予言する夢だって言う。……ということは、近いうちにあの髪型をした葉ちゃんに会えるんじゃないだろうか)
黒吉はハッと顔を上げて、青い空をにらみつけました。その瞳は、気のせいか、野獣のようにギラギラと光っていました。
(でも、葉ちゃんは……義公さんと一緒に東京に行ったんじゃなかったっけ……)
黒吉はがっくりと首を落としました。
(とても会えるはずなんてないよ……)
黒吉は研究所の裏門を抜けると、白っぽくほこりっぽい道を、あてもなく町の外れの方へと歩いていきました。
頭は熱っぽくのぼせ上がり、引きずっている方の足は板のようにカチカチに固まっていました。
疲れがたまってくると、今度はたまらなく悲しくてやりきれない気持ちになってきました。
わあっと大声で泣き出したいような、いきなり道端にひっくり返ってしまいたいような……。
のどはカラカラに乾き、目は真っ赤に血走っていました。そんなとき、ふと目に飛び込んできたのは、「ちょっと一杯、千鳥食堂」と書かれた、古びてはげかかった看板の居酒屋でした。
黒吉はシミだらけののれんを肩でグイと押し分けて、店の中に入りました。
中は土間の床に、長い腰掛けが三、四脚置いてあるだけの、とても殺風景で薄暗いお店でした。
お客さんはだれもいません。
「おーい……」
黒吉が声をかけると、店の奥にある一段高くなった居間の、すすけたタンスの陰から、
「はいよ」
とかすれた声が返ってきました。
「おい、お客さんだぞ」
そのおじいさんの声に続くように、
「あら、いらっしゃい……」
と、この古ぼけたお店には似合わないような、明るい若い女の子の声がしました。すると、赤い塗り下駄を鳴らして、あの「結綿」の髪型をした女の子が、まるでパッと花が咲いたように現れたのです。
「いらっしゃい、何にしま……」
「あっ!」
「あら!」
「葉ちゃん!」
(葉ちゃんだ! やっぱり、あの空で見た夢は本当だったんだ……)
黒吉は驚きのあまり、言葉を失いました。
そして、バカみたいにポカンと口を開けたまま立ち尽くし、何も言えなくなってしまいました。
(義公さんと東京に行ったはずの葉ちゃんが、どうしてこんなところの居酒屋に……。なぜ、どうして、一体なんでなんだ……)
十
「葉ちゃん、久しぶりだね」
「本当にね……」
「……あの、東京に行ったって聞いたけど……」
「そうなの。一度は東京に行ったんだけど、訪ねていったおじさんが、なんのことはない、この町に帰っちゃったっていうから、私もまた戻ってきたってわけなのよ」
「ふーん、そうか……。あの……あいつ、義公はどうしたんだい?」
「義公? ああ、あいつはしょうがないやつだよ。あんまりしつこいから、東京でまいてきちゃった。よく知ってるね、黒ちゃん」
(黒ちゃん!)
その言葉を、あの赤くてかわいらしい唇から聞くのは、一体何ヶ月ぶりのことでしょう。
まるで、何十年も聞いていなかったような気がしました。
女の子とは思えないような威勢のいい話し方の中に、とろけるような心地よいリズムがある葉ちゃんの言葉……。
きれいに結い上げられ、つやつやと光るその髪型は、男の子の心を根っこから揺さぶるような魅力がありました。
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