一
まだ春になりきらない、肌寒い夕暮れ時のことでした。
郊外にある小さめの、道路に面した一軒家の茶の間では、赤ん坊がウトウトと眠たそうにしています。
二十一歳になる若いお母さんは、赤ん坊を起こさないようにそっと慎重に抱き上げると、静かな二階へ寝かせに行こうと階段を上っていきました。
いつもなら、この夕方に赤ん坊を寝かしつける係は、実家からお手伝いにきている「Aさん」という若い看護婦さんにお願いして、お母さんは台所の仕事にまわることになっていました。けれど今夜は、Aさんに故郷へ宛てて急ぎで書く手紙の用事があるのに気づいたので、特別に係を交代したのです。
――Aさんは「すみません」と言いながら、おもちゃやオムツを手早く片づけたあと、一閑張(いかんばり)の机に向かってものすごい勢いでペンを走らせはじめました。
ときどき、印刷された紙をチラチラと見ながら書いている様子です。
本当に、まだ春浅い夕方でした。
だんだんと暗くなっていく庭からは、農学校で買ったシクラメンの花のいい香りがただよってきています。
もともと暗いほどに濃い赤色をした紅梅の花びらは、もうすっかり闇の中に溶けこみはじめていました。
二階からは、お母さんが歌う子守歌が聞こえてきます。でも、歌い慣れていないせいか、ちょっと調子が外れています。
それはどこか、女学校の窓から外の道路へもれてくるような、「ドレミファ」や「イチニサン」と拍子がとりやすそうな、いかにも唱歌(しょうか)っぽい歌声でした。
子供はすぐにぐっすり眠りに入りました。
お母さんはトントンと階段を降りてきます。
Aさんはペンを急ぎませ、慌てて手紙を封筒に入れて立ち上がりました。
それから二人係での夕食の準備がしばらくあって、やがて夕ご飯がテーブルにならべられました。
アトリエ(画室)で静物画を描いていた主人の一蔵(いちぞう)は、夕食のにおいや気配をいつもの習慣で感じ取って、ノソノソと部屋に入ってきました。
「もう寝たかい?」
「ええ、やっとね」お母さんは両肩をぐっと下げるような仕草をしました。
「ここからが、やっと自分の時間だわ」
「お疲れさまでした。本当にすみませんでしたね」夫婦からちょっと離れた、自分用の膳でお箸を持ったAさんが、ちょっと眉を寄せて言いました。
「ううん、とんでもないわ。あなたこそ毎日毎日、赤ん坊の面倒を見てくれて本当に大変だもの。でも、あなたが助けに来てくれて、本当に大助かりよ」
Aさんはもともと赤十字社の看護婦さんでした。
それが二年前、お母さんの母親であるお医者さんの未亡人が、長い間病気をして入院したときに付き添いをしたのがきっかけでした。未亡人からすっかり頼りにされるようになり、退院したあとも「ぜひうちへ」と頼まれて、大森の家へと連れてこられたのです。
Aさんはそこで、体の弱い未亡人の世話をするほかにも、手紙を書いたり買い物の代理をしたり、女中の面倒を見たりして、今ではこの家になくてはならない存在になっていました。
――夕食のテーブルの下で、主人の膝にゴソゴソと触るものがありました。
取り上げてみると、「早稲田工手学校規則書」と印刷された紙でした。
Aさんがうっかり置き忘れたもののようです。
「誰か、工手学校に入るのかい?」主人は紙を広げながら尋ねました。
「あ、はい。弟が入るんです」
「じゃあAさん、東京にも弟さんがいるの?」お母さんが会話に加わりました。
「いえ、まだ故郷にいるんですけれど……早く東京に行きたくて、毎日しつこくうるさく言ってきまして。父がそれに反対なものですから、私にばかり文句を言ってきて困ってしまうんです」Aさんはそう言いながらも、言葉の裏には弟を可愛く思う気持ちをにじませていました。
「その弟さんといえば、このお正月、本当にハラハラさせられる心配なことがあったんですよ」
「まあ、どんなこと?」お母さんが子供のような好奇心で尋ねました。
Aさんの話によると、それはこのお正月、前橋(まえばし)にある故郷へお正月の祝いに帰っていたときのことでした。
遊べるだけめいっぱい遊び、お正月気分も終わったころ、大森の家の仕事(不自由)を気遣いながら、上京する日を電報で知らせてきました。
いよいよその日になり、荷造りをしていると、十七歳になる弟さんが外で帽子をかぶってうろうろしています。
前橋の公会堂まで講演会を聴きに行くから、見送りに行くというのです。
その弟さんは、たくさんの兄弟姉妹の中でも一番Aさんに顔立ちが似ていて、一番気が合う弟でした。
姉弟は乗合馬車に乗って、霜枯れた桑畑が両側にいつまでも続き、上州の山々が白く見える街道を、二里ほど前橋へ向けて進みました。
そして、駅前の分かれ道で立ち止まったとき――Aさんはびっくり仰天したのです。
「私と一緒に東京へ行く気で、ついて来ちゃったんですよ! 駅がすぐ向こうに見えるという場所で、急にそんなことを言い出して、私もう途方に暮れてしまいました。こんな小さな、」とAさんは手でその大きさを表しながら、「風呂敷の中に、寝間着と歯磨きセットを入れて、ちゃんと抱えているんですよ!」
「まあ!」お母さんは語尾を伸ばして驚きました。
「それであなた、どうなさったの?」
「父はものすごく頑固ですし、母はまたやたらに心配性なものですから――『こんな真似をしたらお前、お父さんにそれこそ勘当されるよ!』って、わざときつく言ってやったんです。でも、ぜんぜん効果がありません。『構わない、自分は苦学するんだ!』なんて言うんです。しまいには弟はかんしゃくを起こして、道端で泣き出しちゃって……私も心配だし可哀想だしで、つられて一緒に泣きそうになっちゃって……」
ちょっと言いすぎたかな、と思ったのか、顔を赤らめながらAさんは二人を見つめました。だが、お母さんはすぐにその言葉を受け継いで、
「まあ、なんてかわいい弟さんなの!」
と、感心したように声を弾ませました。
「――それでも結局は、汽車が出てしまいますし、私があまりにも途方に暮れていましたので、だんだんとかわいそうになってきたのでしょうね。
『今日はいったん家に帰るから、その代わり二月中にはきっと東京に出られるようにしてくれ』、こんな事を言って、やっとの思いで別れました。
汽車に乗ってから、私もなんだかどっと疲れてしまって、上野に着くまでずっとボーッとしてしまいました。
大森の叔母様がそれはもう心配してくださって、電報で弟の様子を何度も訊ねてくださいました。
『無事です』という返事を出して、やれやれとやっと安心したところなんです」
「だけどそれなら、早くどうにかしてあげたらいいじゃないか」
主人が真面目な顔で言いました。
「本当にそうよ、Aさん。もう二月中だなんて、あっという間に過ぎてしまったじゃないの」
「はい……」
Aさんは嬉しそうにはにかみました。
「弟からも、『約束が違う』って、すごく厳しい手紙が来ているんです。
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