目の下の生垣の向こう、見え隠れしながら、黒い帽子がスッと軽快に通り過ぎていく。
同時に、郵便箱にパタンと新聞が放り込まれる音が素早く響いた。
主人は椅子から跳び上がった。
「しまった、油断した……!」
自分の不手際に気づき、計画が外れたことを知った彼は、胸のあたりがムカムカと苛立った。
あの黒い帽子は、そんな彼をからかうように道の角へと走り去っていく。
もう追いかけるのは無理だ。
「どうしてやろうあの野郎……!」
主人はイライラしながら、窓からその背中を見送っていた。
だがその時、彼は曲がりくねった道の遠方に、お買い物の荷物を抱えて歩いてくるAさんの姿を見つけた。
「おーい!」
Aさんは主人の大きな声にびっくりして、その場に立ち止まった。
「おい、今そっちへX新聞の配達が行くから、捕まえてくれ!」
そう言い捨てたものの、自分の作戦ミスが悔しくて不機嫌になった主人は、そのまま絵の具や道具を片付けようと、不満げな顔で階下の画室へと降りていってしまった。
しかし、Aさんはいつまで経ったとなかなか帰ってこない。
「意味が通じないふりをして、あの配達の少年に逃げられてしまったのだろうか?」
いや、それよりも、気弱なAさんのことだから、逆に丸め込まれてしまっているのではないか――。
主人は、あんな頼みごとをあの優しいAさんにしてしまったことを、だんだん後悔しはじめた。
彼は下駄を慌てて突っかけると、その「正体の見えない男」をめがけて、緊張した面持ちで歩いていった。
……角を二つほど曲がったとき、彼は思わしいもの――いや、意外な光景を目にした。
三、四間(約6〜7メートル)先のところで、学生帽に法被(はっぴ)を着たという風貌の小柄な中学生が、Aさんを見上げてキョトンと突っ立っているのだ。
Aさんはというと、こちらに背中を向けて板塀に寄りかかりながら、足元の下駄で小石をコツコツと蹴ったりしている。
二人はまるで何からの古い知り合いのように、親しげにしきりに話し込んでいるではないか。
一蔵はすっかり拍子抜けしてしまった。
「……ぼくはよく知らないんですが」
少年特有の、澄み切った声が聞こえてきた。
「学校の庶務課へいらしていただければ、そういうことはすっかり教えてくれますよ。早稲田の終点からすぐですから」
「そうなの? どうもありがとう」
二人はそんな会話を交わしていた。
どうやら、X新聞の苦情や談判をしているわけではなさそうだった。
だが、中学生の言葉を聞きながら、主人はふとその帽子の徽章(マーク)をチラと見た。
稲の輪の中に「早工」と記してある。
早稲田の工手学校(工業学校)の生徒なのだ。
それを見た主人は、なんだか急にこれまでの事情がすべて腑に落ちたような気がした。
彼は、まるで二人きりで語り合う恋人たちの邪魔をしてしまったかのような気恥ずかしさを覚え、なんだか自分がこの場違いな異分子のように感じられた。
「そっと引き返そうか」
そう考えたとき、足元の砂利が正直にカチャリと音を立ててしまった。
「まあ!」
Aさんは顔を真っ赤にして、あわてて会釈した。
「ちょっと道順を尋ねていたものですから……」
中学生の方はというと、これを見てさらに一段と顔を赤らめ、すっかり固くなってしまっていた。
それは、小さな目をキョトンとさせ、顔中そばだらけで、なんだか少し血色のよくない少年だった。
「なんだか、一種の醜い可愛らしさを持った小動物が、無邪気にただ生きているみたいだな……」
そんな連想を自然と起こさせる顔立ちだった。
ひどいそばかすは、両親のどちらかがそういう肌質だったからなのだろうか。
この少年は、それをまっすぐに受け継いでいるのだ。
自分の体には少し大きすぎる大人の法被を着ている姿が、かえってこの少年を「いかにも子供らしく」見せていた。
そんな年頃の少年が彼(主人)を見ると、まるで恐ろしい巡査でも見たかのように、またしても顔を赤らめるのだった。
主人は、その少年とAさん、そして自分との間に、ふと見えない溝があるような気がした。
そして、Aさんとこの中学生の間に流れる素朴な空気感を、どこか少し羨ましく思うような気持ちになっていた。「この人がちょうど工手学校の生徒なものですから」と、Aさんは気まずい雰囲気を和らげてくれる人のように、さばさばと説明した。
「ちょうどいい機会だと思って、試験のことを少し尋ねていたんです。
……でも学生さん。
X新聞はもう本当にたくさんです。
うちではそういう新聞は好みませんから」
中学生の配達夫は、主人の前でそう言われたので、すっかり恐縮して頭をかいた。
顔が赤くなると、そばかすが一層引き立つのだった。
主人は笑い出した。
声を立てて笑った。
Aさんの取りなしによって、自分が引き起こした一件が、うまく面白い出来事に変えてもらえたのが楽しかった。
「いったいこれは、取次店の方で、無理に押し売りするように言いつけたりしているのかい。
文芸欄のある新聞なら、もう一部くらい取ってもいいけどね」彼はそんなことをどもりながら言った。
「はっ、どうもありがとうございます。
いずれまたお願いします」
配達夫は、御用聞きの小僧のような慣れた口調で、勢いよくそう言うと、逃げ出すように生垣つづきの道を駆け去っていった。
主人は散歩がてら別の道から家に戻った。
彼の頭の中は、Aさんと中学生の思いがけない美しい対照によって、イキイキと働いていた。
夕焼けの茜色が空の高いところに残り、白い靄(もや)が道の前方を這ってくる。その空気に包まれると、彼はなんだか平和な気持ちだった。
生きていて、いろいろな物事を感じて、こうして歩いている自分自身を、しんみりとその空気の中に振り返っていた。
……さて、曲がり角にある彼の家では、赤ん坊が眠って二階に連れていかれていた。
門灯には明かりが灯り、すっかり夜の雰囲気になっていた。
例のよう夕食の支度がひとしきり済んだあと、三人が電灯の下で夕食を囲んだ。
だがAさんは食事の間、先ほどの出来事を奥さんには一言も言い出さずに箸を動かしていた。
主人はそんなAさんの様子を、何度かじっと見つめた。
――弟に対する自分の純粋な愛情を、恥ずかしがっているのだ。
やがて、奥さんと二人きりになった時、彼は配達夫との顛末を、おかしみのある調子で話した。
「だから言わこっちゃないのよ」
奥さんはくどくどと彼の短気を責めた。
しかし主人はむしろ、それを心の中で求めていたのだった。
彼は奥さんの口出しを怒ることもせず、上機嫌で聞いていた。
つまり、奥さんの手際によって、さっきから何となく落ち着かずにいた主人の気持ちが、次第にいつもの穏やかな状態に戻されたのである。
「ああ、驚いたよ。
あの子供がこの間じゅう、あんなに強気で攻めてきていた奴とは知らなかったなあ」彼は思い出して、「アハハ」とくつろいで笑った。
四
しばらく時間が経った。
新しい女中さんが富山県からやって来て、Aさんは大森へと帰っていった。
すっかり暖かくなった午後、一蔵がスケッチブックを持ちながら出かけようとすると、Aさんの弟は門の中の満開の桃の木の陰で、未亡人の末の息子とシャツ姿でキャッチボールをしていた。
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