しかし、その法令を持続させたのは彼だろう? たびたびの反柳沢運動にもかかわらず、彼の地位が揺るがず、甲府城主となり、大老などと自称するようになったのは、ひとえにそのおかげなのさ」
「しかし、あの狂気じみた禁令は、むしろ彼の首を絞める縄になっていると思うがね」
「その反対さ。まるで逆だったんだ」主馬は面白そうに笑った。「あの法令が行われている限り、庶民の一部と、役人の大部分が、ひじょうに儲かるのさ」
「――ははあ」
「信じられないかい? では訊くけれども、われわれは毎年、猪や兎の肉を食べるし、鶏はもちろん、牛や豚の肉まで食べたはずだ」
半之助はいやな顔をした。
数年前に、重兵衛の奔走で一席設けられ、そこでだまされて、そうとは知らずに豚の肉を食べたことがあった。
味噌煮だったし、豚そのものは見たこともなかったけれど、あとからそう聞いて、ひどく胸の悪い思いをしたことがあったのだ。「おじいさんや、お父さんたちが若かったころには、こんなにしょっちゅう鳥や獣のお肉を食べたりしなかったものさ。せいぜい、その季節に『薬食い(くすりぐい)』といって、体の弱い人が栄養をつけるために、特別に口にするくらいのものだった。そうじゃないか?」
「まあ、それはそうだろうな」
「もちろん、一般論としてだけどね」主馬はまたお酒をちびりとやった。「ちょっと大げさに言うなら、『殺生禁断(生き物を殺してはいけないという法律)』が出されてから、鳥や獣を殺すことが禁止されたせいで、かえってみんな鳥や獣のお肉の味を覚えてしまったんだ。それまで見向きもしなかった人たちまでが、こぞって好んで食べるようになったのさ」
「なるほどねえ」半之助は思わず吹き出した。「少しひねくれた言い方だけど、言い得て妙かもしれないな」
「しかもそれがさ、言うまでもないことだけど、みんなコソコソとした裏商売になっている。日を決めて、場所を決めて、人数をそろえて、ものすごく手の込んだ、大がかりなやり方でやるんだ。お肉の値段はもちろんびっくりするほど高いし、法律が出たばかりの頃はどうだったか知らないけれど、最近ではまるで一つの組織みたいになっている。そのうえ、絶対に警察や役人に捕まる心配がないんだ」
「そうみたいだな」
「なぜかって? それは、役人という役人が、上から下までたっぷりとお金を握らされていて、ご馳走や美味しいお酒、さらにはプレゼント攻めにあって骨抜きにされているからさ。はじめのうちは、お給料とは別の『お小遣い』みたいなものだったのが、やがて生活していくための『なくてはならない収入』になってしまい、それが無いと生活できなくなっちまったのさ。だから、取り締まる側の人間でありながら、気がつけばすっかり『お肉屋さんの味方(庇護者や加担者)』にならざるを得なくなっているわけさ」
主馬はまた自分で盃にお酒を注いで、キュッと飲み干した。
「それとな、もう一つ別の面もある。こういう秘密の、法律を破るようなおバカな宴会というものは、公私を問わず、アブナイ不正な取引に利用されるんだ。あんなにバカ高いお肉代を払っても、それ以上の見返りがあるような、大きな裏取引にな……。まあ、こうやって言葉だけで説明しても、大したことじゃないように聞こえるかもしれない。だけどな、表立ったところには決して出てこず、裏でこっそり動いているお金というやつは、ものすごい勢いで世の中に広がっていくし、同じくらいの強い力で、じわじわと人間を毒していくんだよ」
「それで、それが柳沢(やなぎさわ)の政治とどう関係があるっていうんだ?」
「柳沢の政治がダメだとか、そういう文句を言いたいわけじゃないし、そんなことに興味もない。ただね、彼を失脚させようという動きが起きるたびに、いつも彼を支えて、逆に勢力を太らせたのは、こういう裏でぐるぐる回っている『お金の力』なんだよ。広い範囲の役人たちの生活を支える収入源になり、大きな不正取引の舞台となっているもの――つまり、『殺生禁断』という法律をずっと続けさせることによって、柳沢の地位は守られてきたのさ」
「なんだか歴史の教科書みたいな、むずかしい理屈だな」
「その証拠を見せてあげるよ」
「まっぴらごめんだね。俺がそんな証拠を見てどうするっていうんだ」
「それは安倍自身の問題さ」主馬は話を元に戻した。「ところでだ、今日まではこうした裏の仕組みのおかげで命脈を保ってきたけれど、毒はどこまでいっても毒だ。それがどんどんたまっていけば、必ず人間の血肉を腐らせ、元気の源を枯らしてしまうものなのさ」
「それは、将軍が柳沢の屋敷へお出かけになる(お成りの)行事が、最近たびたび中止になっていることかい?」
「今年に入ってからもう三回目だ。しかも、柳沢少将には、もはやそれを自分の力で無理やり押し通すだけのパワーが残っていない」
「それなら、もう心配いらないんじゃないか」
主馬は「うう……」と変な声を漏らしてからお酒を飲み、なぜか気取った、すました目で半之助を見た。
「つまりね、このタイミングで谷町のお婿さんになるのは、すごくマズい選択だって言いたいんだ。だけどそのついでに、さっき言った『証拠』というやつを実際に見に行きたいのさ」
「何の証拠を見に行くって?」
「柳沢をいま支えている連中が、いったいどんな連中なのか、そのリアルな現場さ! そして、それを見てからまた相談しようじゃないか」
「なんだか裏がありそうな話だな」
「ないこともないね」主馬は、半之助の疑わしげな視線を、やさしい微笑みで受け止めた。「だけど、その『いわく』の続きはあとで相談するとして、ともかく俺につきあってくれないか?」
「まさか、さっき言ってた『ヤバいお肉』を食いに行くわけじゃないだろうな?」
「食べたっていいじゃないか」
「この暑いのに、冗談じゃないよ!」
「いやなら、無理に食べることはないさ。でも、一度この目で見ておいても損はない景色だからさ」
もう少し日が傾いてから出発しようということで、ともかく、その「証拠」とやらいの現場を見物しに行くことが決まったのだった。
三
あとから振り返ってみると、あれはすっかり計画的なものだった。
主馬ははじめから、半之助を連れ出すつもりでやって来ていたのだ。
しかし、ただそれだけの理由ではなく、その裏にはもう一つ、別の理由が隠されていたのだったが――。
二人が出かける少し前、母親が佐枝(さえ)を連れて、谷町から帰ってきた。
佐枝はきれいに髪を結い上げ、白い桔梗(ききょう)の花束を手に持って、母親の後ろからさわやかな笑顔を浮かべて客間に入ってきた。
まるでこの家の人間であるかのように、何の遠慮もなく、主馬にも慣れた様子で挨拶をし、「わたくしが丹精を込めて育てて咲かせましたのよ。きれいでしょう?」などと言って花をみんなに見せた。
「これを床の間にお飾りしますから、それがすんだら、私がお食事のお給仕をいたしますわ。あともう少し、お二人でゆっくりお話しなさっていてね」
「それはありがたいですがね」と、主馬が半之助の代わりに答えた。「友達と集まる約束をしていて、お帰りを待っていたところなんです。お嬢さんのお給仕でいただけるってわかっていたら、別の日取りにしたんですがねぇ。
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