「じゃあ、船室まで送っていきましょう」
文吾は良子の腕を取り、船室へと案内しました。そこは上甲板にある特別室です。
「じゃあ、おやすみ」と握手を交わし、文吾が扉の外へ出て甲板へ戻ろうとしたその時。今しがた船室に入ったはずの良子が「平林さんッ!」と叫びながら飛び出してきました。
「どうしたんです?」
「だれか、だれかがこの船室に入ったわ……!」
顔を真っ青にして震える良子を見て、文吾は急いで船室へ飛び込みました。
船窓が開いています。そして寝台から床の上にかけて、濡れた大きな足跡が乱れて残っていました。
それは人間の足跡ではありませんでした。長い指と指のあいだには、水かきがはっきりと見て取れます。ひとことで言えば、蛙の足を大きくしたような形です。人間ほどの大きさの蛙がいるとしたら、まさにこんな足跡になるでしょう。
「窓から入ってきたのよ」良子が震えながら言いました。「扉にはちゃんと鍵をかけていたんですもの」
「窓の外は海ですよ」
「海から入ってきて、海へ帰ったのよ」
良子が何を言いたいのか、文吾には痛いほど分かりました。
「啓ちゃんを呼んできましょう」
文吾は良子の腕を取り、甲板へと戻りました。しかし、そこにはもう啓吉の姿はありませんでした。それどころか、椅子は倒れ、啓吉のポケットから落ちたらしい手帳や万年筆が散らばっています。
「平林さん、見て、あの足跡!」
良子が指さした先を見ると、倒れた椅子と船の壁とのあいだに、濡れた大きな足跡がくっきりと残されていました。船室にあったものと同じ足跡です。
疑うまでもありません。船室に忍び込んだ奴が、啓吉を海へさらったのです。
ぞっとして、良子は思わず文吾にしがみつきました。
「河童だわ……ああ、こわい!」
◇
文吾の急報を受け、「葵丸」は激しい汽笛を鳴らして停船しました。船内を捜索し、ランチ(小型ボート)を下ろして海面を捜索しましたが、横浜沖ということもあり水上署からも応援が駆けつけました。
しかし、二時間あまりの懸命な捜索もむなしく、何の手がかりも見つかりませんでした。文吾はその間、もしやあの職工服の青年の仕業ではないかと疑い、それとなく注意を払っていましたが、彼は最初から最後まで冷ややかな目で、甲板の隅で煙草をふかしながら騒ぎを眺めているだけでした。
船内にいないことが確認されると、「葵丸」は出帆しなければなりません。文吾は泣き沈む良子とともに、横浜水上署のランチへと乗り移りました。
水上署はその後も付近の海上捜索を続けてくれましたが、それも結局は無駄に終わりました。
「河童の四番目の犠牲者!」
そんな悲しい結果だけを抱えて、文吾と良子は、翌朝の八時に東京へと帰ったのです。水圧工業会社の社長、鹿島銀造の家は、京橋の明石町にある工場に隣接して建てられていました。
二人が帰宅したとき、朝の早い社長はすでに工場付属の研究所へ出ていたため、文吾は良子を先に休むよう促すと、一人で研究所の方へ向かいました。
「なんだ、大島ゆきは取りやめたのかい?」
文吾の顔を見て、社長は驚いた様子で尋ねました。
「出かけたのですが、ちょっと……」
「どうした、何かあったのか?」
「啓吉君が見えなくなったんです。いや、お待ちください。いま、詳しく説明します」
文吾は社長と向き合って椅子に腰を下ろしました。鹿島社長が驚いたのは言うまでもありません。文吾からの詳細な話を聞いている間、社長のふっくらとした額には、玉のような脂汗が浮かんでいました。
「河童などというのは嘘だ」
社長はテーブルを叩いて叫びました。
「私もそう思いますが、しかしこれまで三度も事件が起きているのです」
「嘘だ、みんな嘘だ」
「……」
「これは津川の奴の仕業に違いない」
「津川と言いますと……ああ、あの」
「君たちが『葵丸』で会った男だ。私が工場から追い出したあの男だよ。私も今日まで河童の噂は聞いていた。そしてそれがどういう仕掛けなのか、考えも及ばなかった。しかし今となってはよく分かる。これは津川の奴がやったことだ」
「何か理由があるのですね」
「今まで誰にも言わなかったが」
社長は声を潜めて続けました。
「私は数年前から『水中砲』の発明をしている。これは沿岸防備に使うもので、簡単に言えば海中の要塞だ。君も知っているように、海の中では水の抵抗と圧力があるため、弾丸を発射してもごく近距離までしか届かず、威力も微々たるものだ。そこでこれまでは浮流水雷や機械水雷などが防備用に、魚形水雷が攻撃用に使われてきた。けれど前者の二つは敵艦が触れなければ役に立たないし、魚形水雷は発射するのに多くの危険が伴う。もし水底から正確な照準で弾丸を発射でき、それが十分な威力を持っていたら、攻撃にも防備にも最も優れた武器と言えるだろう。私は誰にも秘密でその水中砲を研究していた。現在ではほぼ完成に近いところまで来ている。ところが津川の奴はいつの間にかこの研究を探り出したようで、去年の十月のとある夜、研究所へ忍び込み、設計図を盗み出そうとしたのだ」
「それで、ここを追い出されたのですね」
「私が追い出したのだ」
「よく分かりました」文吾は考え深くうなずきました。「恐らく津川は啓吉君を誘拐して、その設計図を社長から奪い取ろうというのでしょう。しかし、それにしても『河童』の謎はどういうことでしょうか。越前堀の事件、月島沖の事件、それから霊岸島の肉屋の事件、この三つは啓吉君の件と関係はないのでしょうか」
扉が開き、給仕が入ってきました。
「速達です」
そう言って差し出したのは、あくどいほど赤い封筒でした。社長は給仕を下がらせるとすぐに封を切り、一通り読むと声を震わせながら言いました。
「やっぱりそうだ、脅迫状だ」
文吾に手渡された赤い紙には、タイプライターで次のような文句が打たれていました。
『鹿島啓吉の生命は安全なり。ただし左の条件を実行せらるるを要す。
一、水中砲の設計図を油紙に包んで空缶に入れよ。
一、五月二十二日夜九時、灯をつけたるボートにて月島五号地沖へ来れ。
一、右海面に設計図入りの空缶を流し、そのまま直ちに立去るべし。
以上実行のうえは、翌日早朝、啓吉を無事に貴家まで送りかえすべし。
河童第一号』
闇の海上の冒険、空缶は投げられた。
平林文吾は研究所を飛び出しました。「河童第一号」とあるからには、啓吉をさらったのもやはり今評判の「河童」の仕業に違いありません。今度は誰もその姿を見た者はいませんが、船室と甲板に残っていたあの濡れた足跡がそれを証明しています。河童は最初、良子を誘拐するつもりで船室へ入ったものの、そこに良子がいなかったため、甲板に一人でいた啓吉をさらったのでしょう。もちろんそれは、水中砲の設計図を奪うための人質としてです。
越前堀の雑貨店から始まった三つの事件には、当初目的がありませんでした。一度目は缶詰を買おうとしたままやめて川へ沈み、二度目は何の役にも立たない鼻紙包みを盗みました。三度目の肉屋でも、塩豚と腸詰めを注文しながら、やはり買わずに水の中へ飛び込んでいます。つまり三度とも目的を持たずに現れたと言えるでしょう。奴らは自分の存在を人に見せておきたかったのだ、と文吾は思いました。
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