初級翻訳・海豹と雲 第8話

北原 白秋

たうたうと波騒ぐ汐首岬、
鮮やかだ、雑草の青、さみどり。
ああ、本当に、いにしえのアイヌ・モシリ、
  語りかけよ、今この岬の岬たちよ。

曇り日のオホーツク海

光はない、燻(いぶ)し色の空には
日の在処が、ただ明るいだけ。
輝くことなく、頂だけが明るい、
オホーツク海の黒いさざなみ。
影はない、通風筒の
帆の綱が辺りに揺れるだけ。
眺めやり、ただ打ち見るだけ、
海豹が浮かぶ潮(しお)。
寒いのか、暑いのか、ただ、
霧と風が、過ぎては舞うだけ。
わたしは誰か、あるのかないのか、
酔おうとも、醒めようとも、まだ。
燻し色の空、輝かない波、
見はるかす円い涯(はて)だけがある。

樺太の山中にて

尾白鷲(おじろわし)が眼を放つ梢には
横雲の縹雲(はなだぐも)がほのかに明かりだした。
ああ、蒼い、黒椴(くろとど)のサルオガセ、
いつの日か花は咲くだろうか、香りも幽かだ。
校倉(あぜくら)よ、ロシア人が住み捨てた小さな小屋、
駅逓(えきてい)の旗にも朱色は褪せている。
霧は飛ぶ、霧は飛ぶ、山が高いので
夏だというのに気流だけが冷え冷えと増していく。
雲の上に棲む魚よ、湖の鱒(ます)、
縹渺(ひょうびょう)と空を見上げる人はどれくらいいるだろう。
凛として、また想う、カムイ・エカシ(神なる祖先)、
旅をすれば、わたしでさえも神の世界へ入っていくようだ。

神々の祖先(アイヌ語)

老いしアイヌの歌

アイヌはよ、
老いしアイヌ、
神アヱオイナ、
アイヌ・ラクグル(アイヌの臭いある人)の後、
神ながらの頭、
土の体、柳の脊骨、
シネ・シツキ・プイコロクル(眼窩の人)
神々の髪の毛の人、彼こそは本当に、
カムイ・オトプ・ウシユ・グル(神の髪を持つ人)なれ。
彼アイヌ、眉毛かがやき、
白き髯(ひげ)を胸にかき垂らし、
家屋の外に萱(かや)畳を敷き、
さやさやと敷き、
厳(おごそ)かなアツシシ(樹皮衣)、
マキリ(小刀)を持ち、研ぎ、あぐらをかき、
ふかぶかとその眼を凝らしている。
彼アイヌ。
蝦夷島の神、
古伝神、オキクルミの裔(すえ)。
ほろびゆく生ける屍(しかばね)。
夏の日を、
白き日射しを、
うなだれ、ただに息のみにけり。
彼アイヌ、
家屋の空見ず、
さやら葉の青の長葉の、
アイサク・ピヤパ(髯なき稷・きび)
フレ・ピヤパ(赤き稷)
チヤク・ピヤパ(はぜ稷)
ヤムライタ・ヨコアマム(藪虱に似し稷)、また、
脚高の熊檻、
仔の熊の赤き舌見ず、
汗垂らし、拭いもあへず。
彼アイヌ、
老いたる鷲、
古り皺み、
病み倦(う)んずる者。
ましら髯、
厳かなアツシシ、
マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、
オンコ(水松)を削り、心は恍(こう)としていた。
彼アイヌ、
よく黙し、
念じ、かつ、しかく黙せり。
彼、キム・ヲ・チパスクマ(山の教義)の徒、
チクニ・アコシラツキ・オルシユペ(樹の守護の教義)の徒、
地上の者、聖シランパの子、
黙想者、聖トボチの僕。
彼はかく念じているようだ。
アトニ・ウエンユク(悪楡)よ去れ。
ニ・アシユ・ランゲ・グル(おおい、汝立木人よ)
キサラハ・ランゲ・シヌブル・カムイ(おおい、汝木の皮の尊き鬼神よ)
オー・トイヤン・クツタリ(汝地上に拡張せる者よ)
総て善し、吾は拝せり。
吾は老い、吾は嘆けり。
吾は白し、早や輝けり。
吾は消えよう、ああ早や。
吾が妻、吾が子、吾が弟、
吾が族の、残れる者、
ことごとく滅せん。
オンコよ、吾が削る
紅柔き兎の肉なす
オンコよ、しかく光れ。
彼アイヌ、
老いたる鷲。
蝦夷島の神、
古伝神、オキクルミの裔。
ほろびゆく生ける屍
光り、かつ白き屍。
彼アイヌ、眉毛かがやき、
白き髯を胸にかき垂らし、
厳かなアツシシ、
マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、
真夜なす眼の窩(くぼ)のアイヌ、
今は善し、オンコ削ると
息長に息吹き沈み、
恍れ、遊び、心足らふと、
そのオンコ、
たらりたらりと削りけるかも。

樺太風景

神こそはおそらくは
子どものような姿だろう。
神殿は野茨(のいばら)なり、
風、それを祝う。
燦爛(さんらん)と木は笑う、
楡(にれ)、やちだも、
恍として、夢ではない。
まだ、うつつの中に。
観よ、小さき朱の馬車に
草は満ちて、
子らと猫がさやぎ、
行き進むのを。
聴けよ、また、燕麦と
白虹とに、
押し移る羊の
日にとろむのを。
げに太初(たいしょ)に道あり、
響きは若々しい。
貧しき人は営みぬ、
空をあおぎて。
この地平かぎりなし、
照りかすみて、
愚かしく、麗しく
野は笑った。
ある人の庭

石狩にて

蜜蜂の
おとなひに
響く小池。
岸辺には
黄の一重、
とろろあおい。
君が園
閑けしや、
夏を、照りを。
はるけくも
来し北か、
ここは音江。
見ず知らず、
また会わず、
この日かぎり。
散る散らぬ、
まだ薄し、
林檎もみぢ。
朝

トラピスト修道院

揺りいづる鐘の数、
六つあまり、七つか、八つ。
夜はあけた、パン種の
粉かとも花は咲いて。
露ながら、人はあり、
祈りつつ、野に刈りつつ。
しずけさや、よき寺や、
カトリックの朝のミサや。
鷹のごと光るもの
山の気に吹きながれて、

美しき八月や、
翼ただ海を指した。

かはらははこ

こは愛し、
かはらははこ、
月のしずく。
ここ過ぎて、
トラピスト
修道院なり。
空ちかし、
青の昴(すばる)。
かはらははこ。
修道士の
また、月に、
絞れ死にぬ。

トラピストの牛

月夜であります。
月夜であります。
月夜である。
キャベツがはらりと一皮はねた、
重い羽ばたき、梟(ふくろう)だ。
七面鳥は朱に青に、
膨れかえって焦げている。
とても明るい山独活(やまうど)だ、
雌しべの花粉は唸っている。
バターの香も新鮮だ。
燕麦、漆姑草(しっここそう)、青蓬(あおよもぎ)、
裸の子供のにおいもする。
さら、
さら、
さら、さら、さら、さら、唐黍(とうきび)だ。
紅い垂毛は目がさめて、
誰か来ないかと待っている。
暑い、暑い、暑い、暑い、
へえほう。
と
虫も啼いている、草むらで。
かあん。
と、空鳴り、空の鐘。
月夜であります。
月夜であります。
月夜である。
「神父さん。」トントン。
「神父さん。」トントン。
「神父さん。」トントン。
「神父さん。」トントン。
「神父さん。」トントン。
「神父さん。」トントン。
「神父さん。」トントン。
「副院長さん。」トントントン。
「院長さん。」トン。
「しつ。」
「しつ。」
「しつ。」
「しつ。」
「しつ。」
「しつ。」「しつ。
」
そんな声が聞こえるような気がするけれど、
実際には何も聞こえません。
ここは牛舎です。
中は暗く、しんと静まり返っています。
腐葉土の匂い、ミルクの匂い。
暗闇にキラリと隠れる黄金虫。
ひっそりと揺れる牛の尻尾の先。
草のちりや屑、
尿の匂い。
それに、食べかけの向日葵の花も、どこかでひっそりと燃えているはずです。
眼。
眼。
眼。
眼。
眼。
眼。
眼。
月夜であります。
月夜であります。
月夜である。
「お乳が張ったよ。
マリアさま。」
トン。
「しつしつ。
」
「しつ。
」
あとはひっそり。
ここが牛舎です。

鴨

鴨だ。

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