初級翻訳・海豹と雲 第10話

北原 白秋

鴨はまかせる。大きいうねりに座って、盛りあがる、盛りあがる、ぶ厚い底力に揺られる。
鴨は開けている、穏やかな眼を。
劫初(ごうしょ)からの海、韃靼の寒空。
しかも、夏、夏、夏。
どちらを向いても、うねりの、絶え間もないうねりの、暗い、光らない、おそろしく、また、穏やかな、波濤(はとう)と波濤と波濤の連続。
ええ、ちくしょう、鴨の尻。
夜が来る。夜が来る。

熊人

白き熊、幽(かす)かなり。極光(オーロラ)を載(の)せている。
人かとも思える、白き熊。
白き熊、凍え立ち、氷原にひとり在り。
見はるかし、白き影。
白き熊は飢え迫られている。
荒天の雪に、ああ、吹きつつむ白き雪。
白き熊は聴いている、今、声なき声のうちに、繁み澄む白き色を。
白き熊はまじろがず、ひたと立ち、息つがず、神去ると、白き息。
白き熊は輝けり。氷原や、涯(はて)知らず、夢は飛ぶ、白く飛ぶ。

春の蚊

幼童

物は見ているけれど、夢うつつではないか。
紋白蝶(もんしろちょう)か、おまえは。(ああ、わが子や。)
日は暮れていき、風もひかるのを、陽炎と自分とが分からなくなるのか。(ああ、わが子や。)
頭がちで、ゆらゆら遊んで、まだ飽きないのか、虫や花に。(ああ、わが子や。)
荒地菊(あれちぎく)がむせぶような熱気に、自然と催すのか、また。(ああ、わが子や。)
幽けく、あえて小さく――ひとすじに、おしっこをしているよ。

春

木いちごは花に現れ、幼児(おさなご)は身軽に走り、笹ごもり、光りつぶやき、蜂は巣を営みはじめる。
閑かなる春や、この朝、我がこころこよなく遊ぶ。

日なか

櫨(はぜ)の花の珠(たま)はみどりに、塗畦(ぬりあぜ)のぬめり青めば、水田には籾(もみ)も蒔(ま)かれた。
われや、はた、うつつの蝶や。
まさしくも春は過ぎ去るのか、首の欠けた道陸神(どうろくじん)よ。

春の蚊

なにならぬつぶやきよ、ああ、篁(たかむら)の靄(もや)のこもりや。
なにならぬつぶやきよ、ああ、墨を磨るこころゆらぎや。
なにならぬつぶやきよ、ああ、昼は闌(たけ)しむらさきの地や。
なにならぬつぶやきよ、ああ、春の蚊をふとし叩きぬ。

白藤

藤の花が軒に匂っている、日が暮れて白い藤の並び。
松田(まつだ)にもほど近そうだ、田舎馬車の角笛が吹いている。
帰ってきた道了薩陀(どうりょうさった)、紫雲英(れんげ)田も後ろになってしまった。
草の香や、遊ぶ子どもや、頭がちで、跳ねる足の裏。
この柔らかさ、小糠(こぬか)たつ杵、それすらや、さみしい、このごろ。
うらがなし、田螺(たにし)ころころ、夜の昴(すばる)にしぶく泡立ち。
どれもよし、余光の微塵、脚を垂れて蜂もあがっている。

常無しや、為すなしや、ああ、春はゆく、かかはらず、また。
日の暮れて白き藤なみ、酒匂川見えそめにけり。

魚の里

酒匂川ちかづきぬらし、色、匂、またさま変へぬ。
葦の根に水気たつもの、ややにして光らむ。
薄あかり、かがむ童もなにかよき鮎の色沢あり。
年増づれ、眉根剃りたる、燈さねば、青き鮠(はや)らし。
足柄の山をくだりて、いくばくも道はあらぬを。
ほのぼのと東へ行くと、月しろの火立に行くと、
身ははやも現身はなし、心はや世のこころなし。
酒の仙、黄金亀の子、我まさに唐の李太白。

月夜孟宗の図

竹林幽居

ひとりかくれた篁に茗荷もしろく香ににほふ。
酔うてほろりとする日でもわしやさびしいぞ、青雀。

雀と童

羽ばたきぬ、頬の白きもの。
光りつつ、風なき昼。
父よ、父、呼ぶわらはべ。
竹のうへ、また竹の葉。
羽ばたきぬ、頬の白きもの。
空や空、かたわれ月。

月夜孟宗の図

孟宗よ。とうからわたしは思つてゐた。このやうなことがあらうかと。
円月は黄色くなる。影と影とは遊んでゐる。山水の音もきこえる。
孟宗よ。ちやうどこのとほりだ。この明るさだ。竹と竹との透かし画だ。
蒼うなつた、蒼うなつた、童よ。あの露を、あの影を拾はうよ。

朝顔

今朝はとなりの藪にさく花朝顔のちひささよ。
貧しい庭の花なれば、となりへ行てもちひささよ。

吾が秋

まだ青いのは松笠、こんこ小松のしたぐさ、
秋はただつかまへて見て、日に透かすこほろぎの黝朱(ゆうしゅ)いろです。

母と子

母は子に乳房与ふと、月輪の光を額にかざすなり。
子は母の垂乳ふくむと、そのかうべ星の息づき保つなり。
ああ、秋よ、飾りなき野辺といふとも、かかる日の閑けさも世にはあるなり。
日かげには茗荷のしろき花咲きて、虫の音に湧きいづる幸は満ち、母のまみ子のまみと会ふ。
ああ、今よ、母は子に乳をふくますと子の父のその母のこと思ふらむ。
はたや、子は母にすがると、その母のをさな姿の早や現れぬ。

かまつか

日の道のやや離るにか。秋は早やつくつくほうし鳴きいでぬ。
葉鶏頭も紅うのり来ぬ。しかも、葉鶏頭いまは我が子の肩を越えたり。
ああ、妻よ、常住むは幻ならず、現身のうつしごころのあはれなり。
その現こそ、その現こそ。

わたしが竹を

わたしが竹を愛するのは陽のちらちらがうれしいのだ。
幽かなは竹、親しいも竹、なにかそこらのちらちらが、蓼や藜を明るくする。
竹はいい、篁はいい、奥ぶかいゆゑ、冷えるゆゑ、なにかそこらのちらちらが、蝶や小蟻を明るくする。
わたしが竹を愛するのはこのちらちらがうれしいのだ。

竹に交りて

竹に交りて幾秋ぞ。竹のはやしにもとゐして、竹にもたれて、日を浴びて、
空のはるけさ、まがなしさ、見よや日なかの雲に鳥。

十七日の月

欠けそめて、ほんの二夜の月なれど、とてもちひさく見えまする。
竹のそよぎも澄みまする。
から面を出す子ゆゑ雲に小鳥も翔けまする。

かほよどり

山住の秋も深むを、すべもなや、かほよどりの、
けけっちょうよ、けけっちょう、けけっちょうよ、けけっちょう、と、
時雨れこそせね、枯枇杷に額あつむるあでやかさよ、日がななにがなせはしさよ。

あてのない消息

あてのない詩でも書かうよ。渡鳥来る日和なら、に音する時雨なら、
竹にじねんじよ、蔦のはな、とりとめもない秋なれば。

花楮

白蛾

眉の毛深い白の蛾は熊の翁を思はする。
浅夜の白い花生薑、香には立つとも、白の蛾よ。
月に舞うては、飛ぶもののいつか萎ゆる翅の色沢。
とすれば明る脚ぼその朱の寂びがちの胸の粉。
なうなう、留まれ、白の蛾よ、秋はほのかなものながら。
観る目はうつつ、飛ぶは夢、月も闌くれば小さうなるはよ。

月夜の風

秋はほのかに寝ざめして、あはれと思ふ幾夜さぞ。
とすれば白う吹きたちて、月夜の風も消えゆけり。

秋立つ浜

春信の浮世絵のこころにて

涼しや涼しやと後のが言つた。女菅笠かたむけた。
涼しや涼しやと乳母が指した。磯のぬれ岩しぶきが立つた。
浪は浅葱のさざらなみ、沖にほのぼの蜃気楼、
また蛤がなげいたさうな、よいにほひよと眺めて行つた。
涼しや涼しや涼しやのう、その声ばかりが吹かれて行つた。

匂の秋

かかる人をわれ知れり。わがふるさとのあはれなり。
ほほゑましげの盲人よ。うたぬ鼓を手に据ゑて、なにをかすかに聴いてやら、
ああ、秋よ、ただ日あたりがよいのやら、にほひばかりに恍れてやら。

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