初級翻訳・火の子供 第1話

原 民喜

〈一九四九年 神田〉

僕は通りがかりに、映画館の前にならぶ行列を眺めていた。
水色の清楚なコートを着たお嬢さんの後ろ姿が、なんとなく僕の目に留まった。
順番を待っている人の姿には、どうしても寂しさがつきまとうものだが、そのお嬢さんの肩のあたりにも、なにか孤独な光のようなものがふるえていた。
たった一人で、これから始まる映画を見たところで、どれだけ心が温まるというのだろう。
幸せそうだけれど、どこか気の毒な感じのする、お嬢さんよ。
僕はなんとなく心の中で、そんなことをつぶやいていた。
その時、どうしたはずみか、お嬢さんがこちらを振り向いた。
その顔は一面、やけどの跡で灰色だった。
僕は見てしまったのだ。
なぜ、そのお嬢さんがたった一人で、映画の中に夢を求めなければならないのかという理由を……。

毎朝、僕は今の部屋で目を覚ますたびに、背筋に冷たいものが走るような感覚に襲われる。
僕は本当に、ここに存在しているのだろうか。僕は宙に浮いていて、どこか果てしない場所へ流されていっているのではないか。
そんな感覚は、どこから湧いてくるのだろうか。
僕がまた近いうちに、この部屋からも追い出さなければならないという不安からだろうか。

僕はあの瞬間、確かに生きていた。倒れてはいなかった。
いきなり暗闇が僕の上に滑り落ちてきたので、唸り声をあげながらよろめいた。
僕はあの時、自分自身のうめき声を聞いた。
頭に落ちてきたものは、崩れ落ちる建物の破片だった。
だが、僕はもっともっと何かひどいものに叩きつけられたような気がした。
すべてが瞬時に、通り過ぎた。
ものすごい速さが、僕の中を通り抜けていったのだ。
あの時から、僕はもう「突然」という言葉を不思議に思わなくなったし、あの時から僕は地上に放り出された人間になったのだ。

……僕はあの夜のことを思い出す。
広島の街は、夜通し燃えていた。
僕は川原の堤防のくぼみに横たわって、人々の泣き叫ぶ声を聞いていた。
これから先、どうなるのかまったく分からない状態の中に、不思議な静けさがあった。
もはや地球は破滅に瀕していて、人々は死の寸前に置かれている、そんな不思議な静けさだったのかもしれない。
薄暗い中に、負傷者や避難民がいっぱいしゃがみこんでいた。
僕のすぐそばに来てしゃがんだ男が、どんな顔をしているのかは分からなかった。
だが、声を聞けばその人の人柄が分かるようだった。
「おじさんについているんだよ。おじさんについていれば大丈夫さ」
男は連れている子供を振り返って、何度もそう言い聞かせていた。
「この子は迷子で、今朝から私について歩いているんです」
僕は、その男がすべてが分からなくなってしまうような状況の中で、必死に迷子をかばっているように思えた。
迷子も、それを守っている男も、そして僕も、みんながみんな、わけの分からない何かにすがっていたのだろう。
だから世界はあの時、たとえ消滅したとしても、僕にとってはそれほど不思議なことではなかったはずだ。

だが、世界は消滅しなかった。
夜が明けると、僕はまた、目の前の惨禍のまっただ中にいた。
僕はあの迷子がその後どうなったのかを知らない。
あの男によって、本当に守られて助かったのだろうか。それとも、離れ離れになってしまったのだろうか。

街の雑踏を歩いていると、あちこちから聞こえてくる雑音の中に、奇妙に悲しい音色のジャズのギターが聞こえる。
ふと気づくと、僕のすぐ目の前を、老人が一人、妙に悲しげな足取りで歩いている。
老人の肩から縄でぶら下げている小さな荷物が、ギターの音に合わせてチンチンチンと小刻みに揺れている。
見ると、老人の足はびっこだった。
彼は自分でも、どんなに悲しい後ろ姿をさらしているのか、気づいていないのだろう。
ジャズの音に踊らされて地上を飛び歩くような、奇妙で切ない姿は、無数の泣き声の中から湧き出た一つの幻かもしれない。
どこか果てしない場所へ流されていくように、どこか果てしない場所へ人を誘うように、その姿は次第に人混みの中へ紛れていく。

僕は夜更けに部屋を出て、深夜の街を歩いてみる。
すると、路地のゴミ箱からゴミ箱へと、何かを探しながら歩いている男がいる。
男は懐中電灯と雑嚢(ざつのう)をぶら下げながら、ゴミ箱からゴミ箱へ飛び回っているのだ。
電車通りの歩道では、また別の男を見た。
竹の杖の先に仕掛けをつけて、それでタバコの吸い殻を拾っているのだ。
吸い殻から吸い殻へ、男は奇妙に悲しい足取りで飛び歩いている。
追い詰められている人間は、どうしてあんなにも一様に、奇妙な動きをするのだろうか。
その姿が、僕の姿と重なり合う。
「自分の部屋」というものを持てない僕は、やはり地上を飛び歩く男なのだろうか。

僕は、この部屋の冷え切った空気の底で、ぼんやりと夢を見ていた。
家を焼かれ、住む場所を奪われて、だんだんと弱っていく子供たち……ギリシャに、ポーランドに、ルーマニアに……そんなイメージが、断片となって僕の心に浮かんでくる。僕は、それが昼間、街の舗道に並べられていた写真のせいだと思った。
あの写真には、削げた頬の下で、スプーンを使ってスープをすする唇が写っていた。
あの写真には、靴も履いていない痩せた脛(すね)が、砂の上を飛び回るように歩く姿があった。
あの写真には、掘っ立て小屋の揺れるテントの陰、木のベッドの上で、注射を打たれて波打つ円い肩が写っていた。
僕は、それらの光景が今も僕の心の中に紛れ込み、僕を脅かしているのだと分かった。
すると、どこからともなく哀しげな手風琴(アコーディオン)の音が聞こえてきた。
すると僕はその音に誘われて、大勢と一緒に街を歩いているような気持ちになった。
だが、僕のいる場所は少しも明るくはなかった。
薄暗い地下道のようなところで、僕のまわりを大勢の子供たちがぞろぞろと歩いているらしかった。
僕は子供たちの流れに沿って歩いていけばよかった。
と、突然、その流れは止まってしまった。
僕のすぐ目の前に、浮浪児を捕まえるための白い網の壁が、するすると降りてきてしまったのだ。

僕は朝の街角で、すぐ僕の目の前を歩いていく若い女性の後ろ姿に目を留めた。
午前の爽やかな光と、活き活きとした空気の中で、その女性の小刻みな歩き方には、何の異変も感じられなかった。
きちんとした身なりで、健康そうに見えた。
だが、僕の視線がふと、その無表情な洋服の肩の付け根にとまったとき、一瞬、相手がバラバラに分解する姿が脳裏をよぎった。
すると、あちらからも、こちらからも、悶え苦しんで死んだ人々の顔や、火の中での叫び声が僕を取り囲んだ。
はっとして、僕は自分を支えなければならなかった。
……しばらくして、僕の中で騒ぎ立てるものが鎮まると、僕はまた先ほどの女性の後ろ姿を目で追っていた。
女性はもう、人混みの中に消え去ろうとしていた。
その姿には、どこかはっきりしないけれど、危険な割れ目があるように思えた。
だが、どんな人間の姿の中だって、確かに危険な割れ目は潜んでいるのではないだろうか。

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