しんとした、静かで狭いお部屋だった。
少年だった僕には、そのお部屋の上の屋根をパッとめくった先に広がっている、果てしない宇宙の世界が、胸の奥にじーんと響いてくるような気がした。
あの頃からすでに、何か不思議なものが僕を引きつけて、僕のことをのぞき込んでいたのではないだろうか。
……きみは、知っていてくれるよね。子供だった僕が、どんなに強く、美しいものに憧れていたかを。
てんとう虫の羽の模様や、さくらんぼのツヤツヤした輝き、シャボン玉に映る虹色……そんなものを見ただけで、僕の心はいきなり遠い遠い場所へと旅立ってしまうのだった。
僕の目は美しい色に見とれて、頭の中までぼんやりとなってしまう。
子供だった僕には、美しさの秘密に包まれた世界だけが、たまらなく大好きだったんだ。
(だから、僕がきみの中に一番強く見つけようとしたのは、あの子供の頃の、なつかしい思い出だったのかもしれないね。)
ときどき僕は、この街なかの人混みの中で、きみの子供の頃にそっくりな女の子を、ちらりと見かけることがある。
お行儀がよくて、どこか少し寂しそうにも見える小さな女の子の顔を見ると、「あそこに、まだきみが子供のまま生きていて、大きくなっている途中なんじゃないかな」と思ってしまう。
それから僕は、きみが昔、夢に描いていた子供のことを思い出す。
原っぱを元気に走り回って、飛び跳ねて、見るからに幸せそうな、子供であることの喜びを全身いっぱいにあふれさせている子供のことを……。そんな子供は、今もこの世界のどこかにいて、やっぱりすくすくと育っているのだろうか。
僕は歩きながら、自分の靴音がトントンと静かに、規則正しく響いているのを感じる。
路面電車の通る大通りから角を曲がって、たった1メートルほどの狭い路地に入ると、両側にそびえ立つ高い建物のすき間に見える青空が、くっきりと澄んでいて美しい。
本当に、こんなにきれいな青空が、この街の中にあったのだろうか。
だけど、僕は知っている。
お腹がペコペコで倒れそうになりながら、焼け野原をふらふらと歩き回っていたとき……あのときも、高い高い空の上から、すうっと差し込んでくる、不思議なほど清らかで優しい光があったことを。そして、僕が生き残ったこと。現にまだ僕が生きていて、何かがそのことを僕に強く刻みつけろとせかしてくるようだ。
僕は自分の靴の音を、まるで自分の呼吸を数えるように刻んでいる。
僕は今、この部屋の窓のすぐ下で、大勢の子供たちが声を揃えて、
ウオ
ウオ ウオ
ウオ ウオ ウオ
と、火事の唸り声を真似ているのを、ぼんやりと聴いていた。
夕闇が下りてきた寒々とした路上で、子供たちは自分たちで煽り立てたその声に興奮して、まるで一人一人が小さな炎そのもののように振る舞っているのだ。
本当に子供たちは燃え狂い、何かに取り憑かれているのではないだろうか。
これは、凄惨な空襲の夜の記憶が彼らの目に蘇り、子供たちは今、火炎の反射の中で遊んでいるのだろうか。だが、
燃える 燃える わあ わあ わあ
子供たちの声はだんだんと高ぶり、みんなが今、同じ一つの幻をじっと見つめているようだった。
そしてそれは、もう悲しみを乗り越えて、歓喜の頂点に達したもののようだった。
僕は絶え間なく雑音に取り囲まれ、揺さぶられ続けている。
道路を隔てて、この窓はすぐ向かい側の家並みと向き合っているけれど、絶えず窓から飛び込んでくる音響は、まるでこの部屋の中に街や道路が勝手に割り込んでくるようだ。
つくづく僕は、今この部屋を仮の宿として借りている自分自身を、気の毒な思いで見渡してしまう。
だが、本当は見捨てられているのは、僕の方らしいのだ。
僕は時々、窓の外の騒ぎに揺さぶられながら、夕闇に包まれた部屋で明かりもつけずに、ぼんやりとしていることがある。
そんなとき、この部屋の窓の外に下駄の音が近づいてくる。
すると、窓の外にある街灯の柱からぶら下がっている紐を、誰かが引っ張る。
軽い音とともに、そこにはパッと灯りがともるのだ。
その瞬間、僕は置き去りにされていた自分にふと気がつく。
子供たちはあの街灯のスイッチの紐を引っ張ることに、そんな些細で単純なことに歓びを見出しているのだろうか。
道路のほかに遊び場を持たない、この辺りの子供たちは、どういうわけか好んで僕の窓のすぐ前にある街灯のところに集まるのだけれど、彼らの中には何かお互いに伝染し合うような弾みが潜んでいるのだろう。一人が喚き出すと、たちまち騒ぎは道路一面に広がっていく。
僕は彼らの中で、絶えず喚き声のきっかけを作る男の子と女の子の声を覚えてしまった。
けれど、ひとたび騒ぎが広がってしまうと、後から後から喚き声は湧き上がり、回転していく。
……僕はふと、走り喚く子供たちの頭に映るイメージの色彩を思い出した。
体が火照って、頭の上で揺らぐ温かいものが、絶えず僕の上にあった。
僕は筒の中を走り続けていた。
だが、ふと、そうして走り回ることの虚しさが僕を捉えた。
僕は立ち止まってしまった。
急に何もかもが冷んやりと感じられた。
その頃から僕は、置き去りにされた子供だった。
僕は夕方、外食へ出かける途中のごたごたした路上で、「一番星みつけた」という優しい、単純な声を聞いた。
すると僕の中で、ごった返していた考えがふと水を打ったように静まってきた。
星はいつの世にも夕暮れに現れ、子供はいつの日にもそれを見つけて悦ぶのだろうか。
それから僕は、路端のむしろの上に座って遊んでいる女の子のそばを、何気なく通り過ぎた。
そのあたりはまだ明るかった。
と、何か美しいものがチラと僕の目を掠めたようだ。
見ると、むしろの紙の上には、小さく引き裂かれた蜜柑の皮が、ボタンか何かのようにお行儀よく綺麗に並べてあるのだった。
(だが、こんなものを見て通り過ぎる僕は、空虚な旅人に過ぎないのだろうか。)
僕が初めて郷里の家を離れて旅に出たのは、もう遠い昔の春のことだった。
東京の裏通りにある下宿の狭い部屋で、僕は初めて、たった一人になったような気がしたものだ。
だが、その部屋の窓から見える隣の黒い板塀には春の陽ざしが柔らかく降り注いでいて、狭い庭の面には青い草が萌えていた。
僕は柔らかい優しい空気につつまれて、あやされているような気持がした。
たった一人にはなったけれど、郷里の家には母や妹が僕のことを思っていてくれた。
僕はその頃、優しいものに支えられて、のびのびと呼吸しているのがわかった。
だが、何か感じやすい心が、やがて遠くから訪れてくる激変を、ひそかに描いてはいた。
その予感さえも、僕は挫くことはしなかった。
僕は運命を素直に受け入れて、人生を味わいたかった。
それほどまだ、体験に憧れている少年だったのだ。
僕はその下宿の部屋の電灯の下で、バルビュスの「地獄」を読んだ。
生温かい、静かな晩だった。
僕は柔らかい壁に取り囲まれているようだった。
だが、その物語の人物は、パリの荒涼とした下宿の一室で独り、深淵を見つめているのだった。
その独り暮らしの、全く孤独な彼には子供がいなかった。
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