初級翻訳・神州天馬侠 第16話

吉川 英治

天文十五年のころ、武田信玄の軍勢が、上杉憲政を攻めて上野乱入にかかったとき、碓氷峠の陣中でとらえたのがこの鷲であった。
碓氷の合戦は甲軍の大勝となって、敵将の憲政の首まであげたので、以来、信玄はその鷲を館にもちかえり、愛育していた。
信玄の死んだあとは、勝頼の手から、供養のためと恵林寺に寄進してあったのである。
ところがある時、檻をやぶって、民家の五歳になる子を、宙天へくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太い鎖で、その足をいましめてしまった。
幼少から、恵林寺にきていた伊那丸は、いつか忍剣とともに、この鷲に餌をやったり、クロよクロよと、愛撫するようになっていた。
獰猛な鷲も、伊那丸や忍剣の手には、猫のようであった。そして、恵林寺が大火事につつまれて、お寺のなかの者たちがのこらず命を落としたなかで、あの鷲だけは、この山の奥につながれていたために、おそろしい炎からまぬがれていたのだ。
「クロ、いまこそわしが、おまえの鎖を切ってやるぞ。そしてその翼で、大空を自由にかけまわるんだ。ただ、おまえを長いあいだかわいがってくださった、伊那丸さまのお姿を地上に見つけたら、すぐにおりてゆくんだよ」
 そう言いながら、鎖に手をかけたが、鷲の足にはめられた鉄の輪も、また太い鎖も、かんたんには切れない。
「めんどうだ――」と、忍剣は鉄杖をふりかぶって、石柱の角にあたる鎖をはっしと打ちつけた。
そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ものすごいときの声がひびいてきた。
鎖はまだ切れていないが、忍剣はその声のほうに手をかざしてようすを見た。
早くも、木立のかげから、ばらばらと先頭の武士たちがかけつけてきた。
いうまでもなく、大須賀康隆の部下である。
扇山にあやしい者が入りこんだと聞いて、捕らえ手をひきいてやってきたものだった。
「お坊主、その霊鳥をどうするつもりだ」
「余計なお世話だ。
この鷲こそ、勝頼公の時代から当山に寄進されているものだ! どうしようとこっちの勝手だ」
「なにっ! さては武田の残党だな」
「おどろいたかッ」と、いきなりぶーんと言わせながらふりまわした鉄杖にあたって、二、三人のかけつけてきた男たちがはねとばされた。
「それっ! にがすな」
 ふもとのほうから、次々とかけあつまってきた人数をあわせると、だいたい三、四十人。槍や太刀をかまえて、忍剣の油断をつき、すきをねらって斬りかかってくる。
「飛び道具をもった者は、木の上のほうからぶっ放せ!」
 足場がせまいので、捕らえ手の頭がこう叫ぶと、弓や鉄砲をひっかかえた十二、三人の男たちが、猿のようにちかくの杉や欅の木にのぼり、手早く矢をつがえ、火縄に火をつけてねらいを定める。
下では忍剣が、ちかよる者をかたっぱしからたたきふせ、すさまじい怪力の限りをつくして暴れたが、空から飛んでくる飛び道具を防ぐ方法などあるはずがない。
早くも飛んできた一本目の矢! そして二本目の矢。
まるで夜叉のように荒れまわった忍剣は、とつぜん、むこう側の捕らえ手の群れに突撃し、そのわずかなすきをぬって、ふたたび鷲の鎖をねらい、全身の力をこめて、ガツンと打ちつけた。
切れた! ギャーッというすさましい叫び声をあげた鷲は、ものすごい勢いで翼をひと羽ばたきさせ、地面からはなれたかと思うと、一陣の山嵐をまきおこした。その翼の風圧をうけて、大木の梢にいた弓組や鉄砲組の男たちが、ばらばらと地面にふりおろされた。
「ア、ア、ア!」とばかりに、捕らえ手の兵士たちがおどろきさわぐなか、一度空高く舞いあがった魔鳥は、ふたたびものすごい風をまきおこしながら翔けおりてきて、するどい爪をむきだしにしてぐるぐるとまわる。
おののき震えた捕らえ手どもは、木の根っこや岩の角にしがみつき、「あれよあれよ」と魂を失ったようにしているうちに、いつの間にか忍剣のすがたを見うしない、同時に、巨大な黒鷲のかげも、はるか天空へと飛びさってしまった。
鞍馬の竹童

一

 話はふたたびもどり、ここは波が明るく輝く弁天島の、薄月の出る夜――
 一方は太刀の名人、一方は鍛え抜かれた槍の達人。どちらも劣らぬ剣の先で、秘められた技を極めたまま突きあわせたおき、松風が吹きわたる白い砂浜の上に、ピタリと動かずに立ちすくんでいるのは、白い服を着た木隠龍太郎と、赤い柄の槍を持つ巽小文治の二人である。
腕前が互角なのか、どちらにもすきがないためなのか、お互いに動かず、まるで彫刻のようににらみあっているその時、まるで妖怪か、あるいは雲のように、月をかすめながら疾風とともに天空からその場所へ舞いおりてきた、ものすごい者がいた。
バタバタというすさましい羽ばたきに、二人はハッと耳をうたれた。
弁天島の砂をものすごく巻きあげて、地面すれすれにかなたへと飛びさった時、不意をつかれた二人は、思わず目をささえて、左右にとびのいた。
「あっ――」と驚きの声をあげたのは、龍太郎のほうであった。
それは、もうはるか遠くへとびさった、巨大な鷲に驚いたからではない。
いま、鏡のように静かな入江をすべって浜名湖から外海へとでてゆく、あやしい船の影――それをチラと見た瞬間に、龍太郎の胸を不安でいっぱいにしたのは、小舟にのこしてきた伊那丸の身の上だった。
「もしや?」と思ったなら、一刻の猶予もしていられない。
すぐに、小文治という目の前の敵をほったらかして、なぎさのほうへと走り出した。
「卑怯者め!」
 おいすがった小文治が、さっと突きだした槍の穂先を、ヒラリとすばやくかわし、その槍の柄をがしっと掴み取った龍太郎は、ハッとふりかえって言った。
「卑怯ではない。
自分のことではなく、もっとも大切なお方の重大な危機なのだ。勝負はあとでかならずつけてやるから、しばらく待ってくれ!」
「いいわけはよせ。
その手には乗らないぞ」
誰がうそを言っているものか。アレ見よ、こうしている間にも、あやしい船がどんどん遠ざかっていく。万が一のことがあっては、自分の命に代えてもお守りしなくてはならないお方なのだ、その身の上が心配でたまらない、だからしばらく待ってくれ、待ってくれ!」
「オオ、あの船こそ、めったに正体を現さない恐ろしい八幡船だ。
それにしても、小船に残してきたというのは誰なのだ。
その事情次第では、待ってやってもいいぞ」
「今はもう何も隠さない。武田家のご落胤、伊那丸さまにおかせられては、そのお方なのだ!」
 しばらくの間、じっと相手の目を見つめていた小文治は、急に槍を投げ捨てて、その場にひざまずいた。
「さては伊那丸さまの御側付きの方でしたか!
今宵、町へ渡ったときに騒がしい噂は耳にしておりましたが、まさかあなた方がそうとは知らず、先ほどからの無礼、幾重にもお許しくだされ!」
「いや、事情さえ分かればいいというわけではない、拙者はこうしてはいられないのだ。
さらば――!」
 ものの一足飛びに、もとの場所へとって返した龍太郎だったが、見てみると、小船はつなぎ綱を解かれて、湖水の彼方にただようているばかりで、肝心の伊那丸の姿はどこにも見えない。
「チッ、しまった、残念……!
あの八幡船の仕業に間違いない。

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