初級翻訳・ばけものばなし 第5話

ばけものばなし

ぼくが知っているあるお年寄りの仕立て職人のお話ですが、彼は子供のころのぼくの家(銀座通りにあったお店)に入ろうとしたとき、お店の前までやって来たのにどうしても中に入ることができず、一度通り過ぎてから引き返し、それでもやっぱり入れなくて、そんなことを四回も繰り返したあとにようやくハッと気がついて、「狐につままちまったよ」と言いながら店に入ってきたことがありました。
こういう出来事は、完全に一種の自己催眠によるものです。「どうしても店に入れないんだ」という思い込みを、何らかのきっかけで自分自身が自分に植え付けてしまったために、あんなふうになってしまったのだと思います。

ともかく、人に催眠術をかけるときというのは、まず相手を催眠状態にしてからあとで「暗示」をかけ、その暗示の通りに行動させるのだそうですが、この「狐にばかされる」という現象も、それとまったく同じ仕組みにぴったり当てはまります。

つまり、化かされてしまう人というのは、「狐なんて本当にいるものか」と疑いつつも、どこかで「狐が人を化かす」という話を信じていたり、「もしそれが本当だったらすごく怖いな」という恐怖心を心の中に心のどこかで持っているような人です。
そういう人が、ひとりで山道や畑道なんかを通る。
そうすると、これまでに本で読んだり人から聞いたりした、「狐にばかされておかしな行動をとってしまった人」の話や、そのときの奇妙な様子をふと思い出してしまうのです。
「あの人は田んぼの中に入っていって、『おーい、ここは海が深い、深いぞ』と言っていたそうだなあ」などと思いながら歩いている、まさにそのタイミングのところに、本物の狐や、あるいは狐にそっくりな犬などがスーッと飛び出してきたとします。
すると、もうその人は完全に自分自身の催眠術にかかってしまうのです。

その瞬間、これまでに人から聞いたり、絵本などで見たりしていた、狐にばかされた男の人や女のふしぎな狂った様子が、次々と頭の中に浮かんできます。
普段はすっかり忘れていたようなことまで、自分で気づかないうちに頭の中にどんどん湧き出てくるのです。
そして、その頭に浮かんでくるおかしな行動を、一つ残らず自分で実際にやってみせなくてはならない――そんな見えない命令を、まったく無意識のうちに、自分で自分に下してしまうのです。

このことの確かな証拠に、狐にばかされた人がその最中にするおかしな行動というのは、みんな決まってお互いによく似ています。
一定の決まったパターンから決して外れないのです。
たとえば、田んぼをまるで大きな川のように渡ろうとしたり、汚物の溜まっている場所に入り込んでお風呂に入っているつもりになったり、馬のフンを美味しそうなお餅(ぼた餅)だと思って食べたりと、みんな同じようなおかしな行動をとるのです。
これは、自分の中に蓄えられた知識や記憶がそのまま「こうしなさい」という強い暗示になってしまい、どうしてもその通りに動かざるをえなくなってしまうからなのです。

そんなときに、タイミングよく通りかかったほかの人が、「こいつ、狐にばかされているぞ!」と言いながら、背中をドンと力強く叩いてくれると、その瞬間にパッと催眠状態が醒(さ)めるというわけです。

これに対して「狐つき」の方は、やはり一種の一時的な狂気ではありますが、狐にばかされる場合よりもずっと長く続き、単なる催眠状態ではなくて、本当に心が病気になってしまっている状態です。
ただ、ふつうの狂気と少し違うのは、その人が病気になる前で見聞きしていた「狐つき」の言い伝えなどが、本人のまったく無意識のうちに、狂気の症状と同時にその人の頭の中に「絶対に逆らえない強い思い込み(強迫観念)」として居座り、その言い伝えが命じる通りの行動をさせてしまうという点です。

この状態のときは、狐にばかされているときと同じような状態です。ちょうど、お酒に酔っ払った人が、酔った勢いで「みんなの前でこうしなきゃいけない」と思い込んで自分の命令で変なことをやってしまう、あのときの心理状態によく似ています。

狂ってしまうような人は、自分が人とは違うこと、つまり「おかしいこと、狂っていること」をしているんだという意識を、どこか無意識のうちにちゃんと持っているものなのだとぼくは思います。
たとえば、狐がついたとされる人が急に油揚げを好きになったり、すごい量を食べたりするようになりますが、「大食い」の方にはもともとそういう狂気の性質が少しあるのかもしれません。しかし「油揚げが好きになる」という方については、これはもう完全に、病気になる前に見聞きしたことがそのまま暗示となって現れたものなのです。
なぜなら、もともと肉食獣である狐が、特別に油揚げを大好きだというわけではないからです。

とにかく、「狐が人を化かす」というお話は日本が本場のような感じがしますが、そのもとをたどれば中国やインドあたりにあるのかもしれませんが、詳しいことはよく分かりません。
ぼくは心理学のことはちっとも知らないので、もし間違っていたら「ごかんべん、ごかんべん」と言ってくださいね。

**鬼について**

「鬼」という存在は、西洋でも東洋でも、そのほかの世界中のあちこちに、多少の違いこそあれ、大体どこにでもいるようです。

しかし、中国における「鬼」のイメージというものは、いかにも中国らしい、なんだか妙に生々しくて気味の悪いものです。そして、日本の鬼も、時代が進むにつれてその受ける感じが大きく変わってきたようです。

鬼には、大きく分けていくつかの種類があるようです。
ひとつは、地獄に住んでいて、いわば地獄の「おまわりさん」や「番人」のような役割をしている鬼。
ふたつめは、この現実世界の奥深い山の中――たとえば丹波の大江山などに住んでいるような、半分人間で半分怪物のような、恐ろしくて残酷な奴らとしての鬼。
みっつめは、もっと幽霊に近いもので、「人間が死んで鬼になった」と言われるような、一種の恐ろしい悪霊としての鬼。
そして四つめは、世の中の悪い空気や災難、病気などを人間の姿として形にした(シンボライズした)、一種の恐ろしい悪鬼などです。

節分の「追儺(ついな)」の行事で、豆をぶつけられて追い払われる弱い鬼というのは、この一番最後の種類の鬼のことです。大江山の鬼なんかは、そこらの豆をぶつけられたくらいでは、とても追い払えそうもありませんけれどね。ともかくも「鬼」という感覚は、たしかに人間が感じる一種の「気」なのです。
不吉なことや災難を喜び、それを引き起こすような、独特の空気感です。
「鬼門」とか「鬼気」とか、あるいは鬼界ヶ島という名前なども、みなそういう不気味な感じを漂わせています。
実は、わたしが見た夢の中で、鬼をものすごくリアルに生々しく見たことがありました。
おそらくどんな人でも、これほどリアルに、生きた生きものとして鬼の姿を見たことはないのではないかと思います。
世間の人たちは、鬼というと大抵は木で作られたような人形のようなものと考えているようですが、私たち人間と同じような生身の肉体の感覚を持った鬼を見た人は、ほかにいないでしょう。

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