初級翻訳・メリイクリスマス 第2話

メリイクリスマス

以上の四つが、なぜその人が私にとって、例の「唯一の人」であるのかという質問の答えなのだが、じゃあそれって、お前たち二人の恋愛そのものの形だったんじゃないのかと問いつめられたなら、私はマヌケ面をして「そうかもしれないなあ」と答えるよりほかない。
男女間の親密なつきあいがすべて恋愛なのだとするなら、私たちの場合もそうだったのかもしれないけれど、しかし私は、その人のことで悩んだことは一度もなかったし、その人もまた、芝居がかったややこしいことは大嫌いだったのだから。

「お母さんは? 変わりないかね」
「ええ」
「病気とかしてないかね」
「ええ」
「やっぱり、シズエ子ちゃんと二人で暮らしているの?」
「ええ」
「お家は、ここから近いの?」
「でも、とっても汚いところよ」
「かまわないさ。今からさっそく遊びに行こう。そうしてお母さんを引っ張り出して、そのへんの料理屋でパーッと飲もうよ!」
「ええ」

女の子は、だんだん元気がなくなっていくように見えた。
そして歩くたびに、少しずつお姉さんっぽく成長していくように見えた。
この子は、お母さんが十八歳の時に生んだ子だというから、お母さんは私と同じ年の三十八歳、ということは、つまり……。
私はすっかりいい気分になって、自惚れた。
お母さんに嫉妬されるってことだって、きっとあるに違いない。

私は話題を変えた。
「アリエル?」
「それが不思議なのよ」
女の子は予想通り、パッと生き生きした顔になった。
「もう何年も前、あたしが女学校に入ったばかりの頃、笠井さんがアパートに遊びにいらしたでしょう。夏だったわ。お母さんとお話しているときに、何度も『アリエル、アリエル』って言葉が出てきて、あたし何のことだかさっぱり分からなかったのだけれど、なぜか妙に頭に残っていて……」
急におしゃべりがつまらなくなったみたいに、ふうっと息を抜いて語尾を小さくし、それっきり黙り込んでしまった。そしてしばらく歩いてから、まるで何かを断ち切るように言った。
「あれは、本の名だったのね」

私はますます自惚れた。
間違いない、と思った。
お母さんは私に惚れていなかったし、私もお母さんに恋愛感情を抱いたことは一度もなかったけれど、しかし、この娘と一緒なら、あるいは……と思ったのだ。
お母さんはたとえ落ちぶれていたって、美味しいものを食べなければ生きていけないという人だったから、対米英戦が始まるよりもずっと前、広島あたりの美味しいものがたくさんある土地へ、娘と一緒にさっさと疎開していたのだ。
疎開した直後に、私はお母さんから短い絵葉事をもらったけれど、当時の私の生活はとても苦しくて、のほほんと疎開している人に返事など書く気も起きないまま放置しているうちに、私のまわりの環境もどんどん変わっていき、とうとう五年間も、その母子とは連絡が途絶えていたのだった。

そして今夜、五年ぶりに、しかも全く思いがけず私と再会して、お母さんの喜びと、この子の喜びとでは、いったいどちらのほうが大きいのだろう。
私にはなぜだか、この子の喜びのほうが、お母さんのものよりもずっと純粋で深いもののように思えた。
もし本当にそうだとしたら、私も今のうちに、自分がどちらの味方なのかハッキリさせておく必要がある。
お母さんとこの娘の両方に平等に属するなんてことは、不可能な相談なのだ。
今夜から私は、お母さんを裏切って、この子の仲間になろう。
たとえお母さんに嫌な顔をされたってかまいやしない。
だって、恋しちゃったんだから。

「いつ、こっちへ来たの?」と私は聞いた。
「去年の十月よ」
なんだ、戦争が終わってすぐじゃないか。もっとも、シズエ子ちゃんのお母さんみたいな大わがままな人が、いつまでも田舎の暮らしにじっと耐えられるわけもないか。」
 私はすっかり軽口をたたくようになって、お母さんの悪口を言った。
娘の機嫌をとろうとしたからだ。
女ってものは、いや、人間っていうものは、たとえ親子であってもお互いに張り合ってしまう生き物なのだ。
しかし、娘は笑わなかった。
けなしても、ほめても、お母さんの話題を出すことは禁じられているかのように見えた。
すごい焼きもちだな、と私はひとりで勝手に思い込んだ。
「こうして会えて本当によかったよ。
」私は、すかさず話題を別の方向へ変えた。
「まるで時間をきめてあの本屋で待ち合わせていたみたいだったね。
」
「本当にねえ。」と、彼女はこんどもうまく私のロマンチックな気持ちに引き込まれた。
私はすっかり調子に乗って、
「映画を見て時間をつぶして、約束の時間のちょうど五分前にあの本屋へ行ってさ、……」
「映画を見たの?」
「そう、たまには見るんだよ。
サーカスの綱渡りの映画だったんだけど、役者が芸人を演じると、すごくいい味を出すんだよね。
どんなに下手な役者でも、芸人役をすると、すてきな雰囲気を醸し出しやがる。
もともとが、本物の芸人なのだからね。
芸人特有の悲しさが、無意識のうちににじみ出てくるんだよなあ。
」
 恋人同士の会話には、やっぱり映画の話題が一番似合うようだ。
なんだか妙にしっくりくる。
「あれ、あたしも見たわ。」
「偶然あなたと会った瞬間に、二人のあいだに波がざあっと押し寄せてきて、そしてまたすぐに離ればなれになっちゃうね。
あそこのシーンも、すごくよかったな。
あんなふうにして、二度と会えなくなってしまうということも、人生には本当にあることだからね。
」
 これくらい甘いセリフを平気で言えるようにならなくちゃ、若い女性の恋人にはなれない。
「僕があの映画館をもう一分だけ早く出て、そのあとで君が本屋に入ってきたとしたら、僕たちは永遠に、いや少なくとも十年間は、二度と会えなかったんだよ。
」
 私は今夜の偶然の再会を、できる限りロマンチックに盛り上げようと必死だった。
道は狭くて暗いうえに、ぬかるみまであったので、私たちは二人並んで歩くことができなくなった。
娘が前を歩き、私はコートのポケットに両手をつっこんだままその後ろをついていきながら、
「もう半丁くらいかな? それとも一丁くらい?」と尋ねた。
「あの、あたし、一丁ってどれくらいの長さなのかよく分からないの。
」
 私も実は同じで、距離を正確に測るなんてことは全くできない人間だった。
しかし、恋愛をしているときに「わからない」なんて情けない姿を見せるわけにはいかない。
私は、まるで科学者のようにすまし顔で、
「百メートルくらいはあるかな。
」と言った。
「さあ、どうでしょう。
」
「メートルなら、どれくらいの長さか実感がわくだろう。
百メートルっていうのは、半丁のことだよ。
」と偉そうに教えてやったものの、何だか急に不安になってこっそり頭の中で計算し直してみたら、百メートルというのは約一丁のことだった。
しかし、私は訂正なんてしなかった。
恋愛の場面で恥をかくのは絶対にタブーなのだ。
「でも、もうすぐそこなんですわ。
」
 それはバラック小屋のような、ひどくボロボロのアパートだった。
薄暗い廊下を進み、五つか六つ目くらいの左側の部屋のドアに、「陣場」という貴族みたいな苗字が書かれていた。

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