初級翻訳・ロビンソン・クルソオ 第2話

ロビンソン・クルソオ

客
自然主義は自由恋愛主義である。
自由恋愛をすれば夫婦が無くなる。
族制が無くなる。
所有権が無くなる。
国家が無くなる。
翻訳者
へえ。
それは始て伺います。
僕なんぞは自由恋愛というものは、社会主義者なんぞの方では唱えていても、自然主義には関係がないと思っていましたが。
客
君なんぞがなんと思ったって構わない。
国家がそう認めている。
翻訳者
そして個人主義は。
客
人は国家を組み立てている一元子として価値がある。
納税をすれば好い。
兵役に服すれば好い。
若し個人その物に価値があるなんぞと思うと金も惜しくなる。
命も惜しくなる。
人を倒して自分が大きくなろうとする。
国家に対して義務を果すことを厭がる。
国家はどうなっても好いと思う。
それを個人主義とも個人本位とも言うのだ。
翻訳者
へえ。
それも始て伺います。
それでは利己主義から社会主義や無政府主義になる人の事ばかり言っておいでなさるようですね。
個人その物に価値があると思ったって、同時に他人の価値を認めるから、利己主義になるとは決まっていますまい。
その価値のあるものを社会の為め、国家の為めに犠牲にする処に、人生の高尚な一面があるのではないでしょうか。
どうも個人主義が即ち利己主義だとするのは、間違っているようですが。
客
そりゃあ君一個の私見だ。
翻訳者
併し誰の書いた本を見ても。
客
待ち給へ。
それは西洋の本や、西洋の学問をした奴等の書いた本だろう。
翻訳者
そうです。
どうせ主義がどうのかうのと言うような論をしているのは、新しい学者です。
西洋の学問をした学者です。
そう言う学者が個人主義と利己主義とを別にしています。
失敬ですが、あなたの方が却て一個の私見ではありますまいか。
客
失敬な。
国家がそう認めている。
翻訳者
そうですかね。
僕だって日本の国体は類のない、結構な国体だと思っています。
租税は甘んじて納めています。
一年志願兵を済ませて、今でも予備役になっています。
召集されれば、いつでも出て行きます。
親は大切にしています。
社会主義には反対です。
無政府主義には大反対です。
併し飯を食うのは、租税を納める為めに働かれるように体を養うのだ、戦争に出て働かれるように体を養うのだと思って食うのではなくて、腹が減った時旨いと思って食うのです。
女を可哀がるのは子を生ませて兵隊にする為めだ、先祖を祀らせる為めだと思って可哀がるのではなくて、只可哀いから可哀がるのです。
要するに自分の個人としての価値を忘れることは出来ません。
僕は拙いながら文藝を遣っていますが、只専心に自分の芸術家としての良心を満足させようと思って、作をしています。
それは書いた本が売れて金が儲かったら納税は甘んじてしましょう。
併しそんな事は、作をする時考えてはいません。お腹が空いてごはんを食べるときでも、女性を愛おしく思うときでも、いつも国のことを考えているわけではありません。
もちろん、考えが国のことに及ぶこともあります。
でも、それがずっと続いているわけではありません。
ですから、あなたのお話に従えば、僕はどうしても個人本位とか個人主義とか言われてしまうことになります。
そのくせ、僕は利己主義は大嫌いで、献身的な行為が好きなんですけれどね。
客。
それは五十歩百歩の議論だな。
翻訳者。
そうでしょうかね。
それでは僕は危険人物だと思われても、仕方がないかもしれません。
でも、僕はあなたのお説には納得いきません。
(主人に向かって。)
それでロビンソン・クルーソーのことですが、たった今お聞きしたところでは、親不孝者を描いた本だそうですね。でも、とにかく僕なんかは大好きな本で、今度翻訳するのもうれんで引き受けたんです。
僕はそもそも、新しいことをゼロから始めるのが好きなんです。
どうせ新しいことを起こすには、まわりの反対を押し切って、古いしきたりをぶち破っていくものです。
ですから、必ず親の許可をもらってからやる、必ず国の承認を受けてからやる、なんていうわけにはいかないんですよね。
漢の高祖が天下を取った話が好きです。
ナポレオンが好きです。
お釈迦様やキリストが好きです。
マルティン・ルターが好きです。
つまり、そういう人物たちの行動を原始的なところから考えてみると、ロビンソン・クルーソーのようになるのではないでしょうか。
だからこそ、僕の気に入るのではないでしょうか。
主人。
そうだろうね。
僕には君の気持ちがよく分かっているよ。
つまり君は、国を守り抜く人よりも、新しい国や道を開拓する人のほうが好きなんだね。
お坊さんよりも、未来を予言する人のほうが好きだというわけだ。
征服者も同じだろうし、冒険者もきっと同じだろうね。
とかくそういった人物というのは、親の言うことを聞かなかったり、国のルールを守らなかったりするものだ。
だからといって、そうした歴史的な足跡を「危険だから」といってすべて消し去ってしまうわけにはいかないだろう。
国だって、まさかそんなことをしようとは思ってもいないはずだ。
実際にロビンソンの翻訳本だって、これまで販売禁止になったことはないんだからね。
あれもアレクサンダー・セルカークとかいう水兵の実話をベースにして作られたそうだけれど、スペインの海の力を打ち破るほどの強い海軍も、一人の人間を解き放ったときに、あれほどの偉大な仕事ができる水夫がいる国だからこそ、大きく発展することができたんだろうね。
僕は、話し言葉のスタイルで読みやすい翻訳本を出すことに大賛成だよ。
客。
僕は国が禁止していない本のことだから、無理に文句は言うまい。
主人。
(客に向かって。)
それはまた大そう寛大なことだね。
僕だって法律やルールを守る行ないは素晴らしいと思うよ。
でも君は、お役人やその手下たちが言ったことを、すぐに「国がこう認めているんだ」なんて言うけれど、あれはいけないね。
客。
私はそれでいいと思っている。
法律や命令にあることは、法律や命令に従う。
官報にあることは、官報に従う。
官報に準じるものにあることは、それに従う。
翻訳者。
(皮肉な口調で。)
政府寄りの新聞記者が書いたものにあることも、その記者の書いたことに従うんですか。
客。
もちろんそうだ。
翻訳者。
(主人に向かって。)
それでは、本の序文はどうしましょう。
主人。
ダメだねえ。
君、いっそのこと今日のこの会話でもそのまま書いたらどうかい?

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