初級翻訳・人造人間 第2話

人造人間

さあ、これから少し復習をしましょう」
「先生……」
 こう言って顔をあげた房子の目は、少し涙ぐんでいました。
「わたし、もうそんな難しいお勉強はいやでございます。
わたしはただの女でいたいの。
先生のそばからずっと離れないで、去年の夏のように、先生に愛されて……。
ねえ、先生、わたしをどこかへ連れていってください。
誰もいないところへ、先生と二人っきりになれるところへ」
 彼女は博士のひざに顔をうずめて、しくしくと泣きはじめました。
 博士は、ひざの上の作業着をとおして、やわらかい体がふるえているのを感じながら、しばらくの間うっとりとしていました。しかし同時に、「これは困ったことになったぞ」というような表情を彼女の頭の上であらわしつつも、やっぱりやさしい声で言いました。
「いけないよ、そんな子どもみたいなことを言っちゃ。
私はずっとあのときから君を愛し続けているじゃないか」
 彼は、うす化粧をした彼女の首すちにそっとキスをしました。
そして、話を続けました。
「でも、私には妻もいるし、四人の子どももいることを知っているだろう? それに君だって、結婚の約束をした婚約者がいるじゃないか」
 房子は顔をあげました。
博士のズボンのひざは、彼女の涙で大きなシミができていました。
彼女の目のまわりは、涙でぐっしょり濡れていました。
「わかりました。
わたしがワガママを言いました。
でも、どうしても先生のそばから離れることはできません。
去年の夏でしたわね。
八月の十四日でございましたわ。
午後の四時ごろでしたわね。
まだ太陽が高くて、ものすごく暑い盛りでしたもの。
先生は水着を着て、砂浜に半分体をうずめていらっしゃいましたわ。
まるで中学生みたいにはしゃいで、わたしなんてすごくおてんばだったでしょう。
大きな声で歌を歌いながら、先生のすぐそばを通りすぎたのでしたわね。
わたし、わざとそうしたのですわ。
わたしの方では、あなたのことをよく知っていたんですもの。
ブッセの詩でございましたわね、あのときわたしが歌っていたのは。
 山のあなたに空遠く
 さいわい住むと人のいう
 ああわれひとりとめゆきて
 涙さしぐみ帰りきぬ
 山のあなたになお遠く
 さいわい住むと人の言う
この歌を歌いましたわ。
すると、先生もあとから追いかけるように歌ってくださいましたわね。
わたし、耳の根っこまで真っ赤になっちゃいました。
でも、歌うのはやめなかったわ。
そして、本当にとってもうれしかったの。
胸がドキドキするくらいでしたわ」
 村木博士の目にも、少し涙がうかんできました。
昔の思い出を振り返るということは、たとえどんなにつらい時の思い出であっても、人の心をセンチメンタルな気持ちにさせるものです。
まして、このようなロマンチックな思い出なら、涙をこらえることなんてできません。
博士は彼女の言葉に続けて言いました。
「それから、海の中で何度も会いましたね。
下半身を水につけながら、ときどきやってくる波をよけながら、いろんなお話をしたね」
「そしてついに、わたしも先生からすぐ近くのところに並んで砂に埋まったのでしたわ。
そして、いろんなお話をうかがいましたわね。
先生がドイツでご覧になったお芝居のお話とか……そして、『遊びに来いよ』とおっしゃってくださったから、鎌倉のご自宅へお伺いしたのよ。
それから……」
「不思議なものですね、人間のめぐり合わせというのは。
だから、あなたはその夏の終わりに大学の聴講生をやめて、私の研究室を手伝ってくれることになったんだね。
そして、冷たい科学の研究をしながら、私たちは……」
「愛し合っていたのですわ。
すべてを焼きつくしてしまうような、熱い愛で」
「私たちは、まるで若い学生同士のように愛し合ったね」世間では、私たちがこの研究室の中で、いつも顕微鏡や試験管ばかりいじくっていると思っているし、私の妻もそう思っているけれど、本当は私たちは一日中この部屋の中で、手を握り合ったり、抱き合ったりして、愛のふれあいをつづけていることもありましたね。
研究の方はおろそかになりがちで……」
 二人の手が自然と動き出し、
 激しい抱き合いがかわされました。
 房子はうるんだ目で、まるで彫刻のように落ち着いた博士をじっと見つめながら、少しふるえた声で言いました。
 「でもその間に、先生は、私さえも全く知らない間に、あんなにすばらしいご研究をなさっていたんですね。
 人間の人工生殖だなんて、私、ほんの少しでいいから隣のお部屋を見せていただきたいわ。
 もう一月になりますよね。
 先生があのお部屋をしっかり閉めきって、カギをかけられてから。
 でも、私にだけでもちょっとくらい見せてくださってもいいでしょう?
 私、どうしても見たいわ、どんな様子で育っているのか……」
「それだけはいけません。
それに実験は完全な暗闇の中で行われているのだから、見ることはできないんです。
それに、とても静かな環境が必要なんだよ。
まあ、実験が成功するまで待っていてください。
今回の実験は私の命と名誉をかけた実験だから、もし万が一失敗したら、私はすべてを失って破滅してしまうんだからね」
 長い四月の日も暮れかけたころ、二人は実験室を出て、桜の花が散り敷く庭を通って、博士の自宅の裏口へと姿を消していきました。

3

「お父さん、犬なんて鳴くか知ってるかい?」
「犬はワンワンって鳴くさ」
「そりゃ日本の犬さ。西洋の犬はどうやって鳴くか知ってる?」
「西洋の犬だって同じさ」
「うそだよ。お父さんは知らないんだなあ。
西洋の犬はね、バウワウって鳴くんだよ。
リーダー(教科書)にそう書いてあるよ。
ほら、『ザ・ドッグ・バークス・バウワウ』ってね」
「お父さま、百日紅(さるすべり)と書いて、どうして『サルスベリ』って読むんですか?」
「難しい質問だな、お父さんは知らないよ。
お兄さんに尋ねてごらん、お兄さんは物知りだからね」
「日本語なんか僕知らないや。百(さる)で、日が(すべ)で、紅が(り)だろ。
英語では百日ってハンドレッド・デイっていうよ」
「ハンドレッド・デイズだよ。複数形だからね」
「やっぱりお父さんはすごいなあ!
昨日の新聞にお父さんの写真が載っていたね。
内藤さんの写真といっしょに。
内藤さんもすごくえらいんだね」
 村木博士はいつものように、十四歳と十二歳になる長男と長女を相手に、学校に行く前の遊び相手として過ごしていました。
 博士は春から夏にかけては毎朝五時に起き、水曜日に一度大学の生理学教室へ講義に出かける以外は、ふだんは朝八時から午後五時まで、自宅の敷地内にある実験室で過ごすことになっていました。
 ただ八月だけは鎌倉の別邸で暮らすことになっており、そこにも一部屋を実験室にあてていました。
 房子と知り合った場所も、この鎌倉の別邸でした。
 ですから、朝の三時間は博士は完全に家庭のお父さんであり、昼間の九時間は完全に研究のために使われていました。
 この日課は、正確な時計のように一度も狂ったことがありませんでした。

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