初級翻訳・夏の夜の冒険 第2話

夏の夜の冒険

それにしても、こんな深夜に九歳くらいの子供が行方不明になっているとすれば、家では大騒ぎをしているに違いありません。

「これからおじさんたちが送っていって、母ちゃんによく謝ってあげるからね。一緒に帰ろうよ」

ライスカレーを一皿平らげて、きょとんとして宙を見つめていた彼は、しばらくしてから言いました。

「いやだ、僕、家へ帰るのはいやだ。今度帰ったら承知しないって、母ちゃんが言ったんだもの」

私たちは子供をカフェに預けておき、子供から聞いた道を辿っていくことにしました。
暗い上に軒灯(玄関の明かり)のない家が並んでいるので、マッチを擦っては、一つずつ表札の文字を透かして確かめながら探さねばなりませんでした。
蚕事試験場の少し手前を右へ折れた路地で、ようやく目的の家を探し当てるまでに、たっぷりと三十分はかかりました。
木戸を開けようとすると内側から鍵がかかっていて、なかなか開きません。
私たちはどんどん叩きました。

「ごめんください……こんばんは……!」

と大きな声で怒鳴りました。
それでも家の中は静まり返っていて、返事がありません。
腹が立ってきたので、ますます激しく木戸を叩き続けました。
最初は何事だろうと思って近所の人たちが起きてきました。
そのうちに、ようやく玄関に明かりが灯りました。そして、いかにもトロそうな動作で戸が開けられました。

「貴方がご主人ですか?」
「はあ」

主人というのは、まだ三十五、六歳くらいの大人しそうな男でした。

「ずいぶん声をかけたのですが、聞こえなかったんですか?」
「ちょうど寝入りばなだったものですから」
「では、おやすみになっていたんですか?」
「はあ」

私と主人が話をしていると、いきなり後ろから時国が怒鳴りつけました。

「おい、君は今聞いていれば寝ていたんだそうだが、君の子供がいまどうなっているか知っているのか?」
(……沈黙)
「君の子供はいま、死にかかっているんだぞ」
「今頃になって自分の子供が帰ってこないのに、三十回も戸を叩かねば目が覚めないほど熟睡しているなんて、それでも君は親か? 人間か?」
「ずいぶん探してみたんですけれど……」
「わからないから寝てしまったっていうのか? 馬鹿ッ」
(……沈黙)
「この近所で君のことを何と言われているか知っているか? 鬼だと言われているよ。君の子供は昨日から何も食べないで、かわいそうにひょろひょろになって、線路の土手に寝ていたんだ」
「すみません」
「すみませんじゃないよ。おかしいね、君は、子供のことをちっともさっきから尋ねないね。子供の居場所がわかったら、少しは嬉しそうな顔をして、早く子供の顔を見たがりそうなものなのに、ちっとも嬉しくないのかね? 他人ですら、みんな心配して、いろいろと世話をしてくれているんだよ。隣近所の人だって、みんな気にして、ああして起きてきているんだ」それなのに一体、母親はどうしたんだ? 君の奥さんはどこにいるんだ?
玄関の奥の部屋につってある蚊帳(かや)の端っこが、開いたふすまから見えました。
その中で突然、わっと女の泣き声が爆発しました。
急にドラマのような場面が繰り広げられたのです。
奥さんが、しわくちゃの浴衣のまま玄関へ飛び出してきました。
「……わたしが悪うございました……」
彼女は泣きながら、何か口の中で言い訳を始めました。
話を聞いたときには、殺してやりたいほど憎らしい奴だと思っていましたが、実際に会ってみると、それほど激しく怒鳴りつけるわけにもいきません。
まして相手は若く、おまけに美しい女なのです。
若い女の涙というものは、どうも男には弱いものです。
私たちはそれ以上、彼女を問い詰めるのをやめました。
そして、何だかひどく意味のあることをしたような、宝物でも拾ったような不思議な気持ちで、その家をあとにしました。

「駒込橋のところのカフェにいるから、すぐに迎えに行ってやりなさい」
帰りがけに私たちは、玄関先でうなだれている夫婦に向かって、いい気分でそう言ってやりました。
もう夜中の三時を過ぎていたのに、近所のおかみさんたちがぞろぞろと起きてきて、いつのまにか門口には人だかりができていました。
「本当にひどい女ですよ」
「あんなことくらいで直るもんですか。今に、あの子はもっとひどい目に遭いますよ」
「毎日旦那が勤めに出るとすぐに、ひいひい泣かせているんですから。近所のものがはらはらするんですよ」
「芸者あがりですね、きっと」
「芸者ならもう少し気が利きますよ。板橋あたりの女郎か、玉の井(の女)ですよ、お里は」
「旦那が意気地がないんだ。あんな真似をさせておくなんて」
私たちはそんな憎々しげな罵声の中をかき分け、おかみさんたちに顔を見られながら出ていきました。

「痛快だったね」
「うん。でも、あんなことをして、かえってあの子が後でひどい目に遭いはしないかな。今、奥さんたちもそう言っていたよ」
私は少し憂鬱になってきました。
「そんなことしたら承知しないさ。僕はまたちょくちょく様子を見に行ってやるつもりだ」
「そうだね、そうしないといけない。このままじゃ、かえって悪い結果になるかもしれないからね」
だが、もちろん私たちはそれきり、二度とあそこへ行くことはありませんでした。

翌日の晩、例のカフェへ行って尋ねてみると、
「ひどい人ですね。今日の夕方になって、やっと父親の方が迎えに来たんですよ。お礼一つ言わないで、怒るようにして連れて行きましたよ。子供も少しも懐かなくて、『帰るのはどうしてもいやだ』と言っているのに、ぶったり叱ったりして引きずるようにしていきましたよ。いいえ、お金なんて一銭だって置いていくものですか……」
こんな話を店員さんから聞いても、もう前日のような興奮を取り戻すことはできませんでした。
「世の中には色々な人間がいるもんだ」――そう思って、軽くため息をつくくらいがせいぜいでした。

それから六、七年たってからのことです。
私はしばらくぶりに、ある会社へ勤めることになりました。
すると、そこの事務室に、どうもどこかで見たことのある顔の人がいたのです。
どうしても思い出せませんでしたが、ふとした機会でその名前が「刈谷長太郎」だということを知ったとき、六、七年前の記憶が一度に蘇ってきました。
やっと、その男に近づく機会を得たとき、私は早速尋ねてみました。
「あなた、お子さんはありますか?」
「いいえ、今はいません」
「前にはいらしたのですか?」
「ええ、いい子でしたが、九つの時に死んでしまったんですよ。生きていれば、今十六ですがね」
「それはお気の毒ですね。何かご病気ででも?」
「怪我をしましてね、火傷(やけど)をしちまったんですよ」
「危ないですね、こたつででも?」
「いいえ、夏でしたから、こたつじゃないんです。ガスなんです。体じゅう火ぶくれになって、かわいそうな死に方をしたんですよ」
男の目は涙ぐんで、一言一言、昔を思い出す様子でした。
「奥さんとお二人じゃ寂しいでしょうね」
「家内はいません」
「では、やっぱりご病気ででも……」
「いいえ、死んだんじゃないんです。

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