初級翻訳・人魚の姫 第9話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

だから、ぼくの心の中にある、その娘さんの姿も、押しのけられてしまいそうくらいだよ。
でも、その娘さんは、あの修道院に一生いる人だから、幸福の神さまが、かわりに、おまえをぼくによこしてくださったんだよ。
これからは、どんなことがあっても、離れずにいよう」

「ああ、王子さまは、あたしが命を助けてあげたことをごぞんじないんだわ」と、人魚のお姫さまは心の中で思いました。
「あたしが、海の上を、修道院のある森のところまで連れていってあげたのに。
それから、あたしは、海のあわをかぶって、だれかこないかと見ていたんだわ。
そうしたら、きれいな娘さんがきたんだわ。
その娘さんを、王子さまは、あたしよりも好いていらっしゃる」

人魚のお姫さまは、深いため息をつきました。
けれども、泣くことはできませんでした。
「そのむすめさんは、一生修道院につかえているんだと、王子さまはおっしゃったわ。
そうすると、この世の中へは出てこられないんだから、おふたりはもう会えないわけだわ。
それにくらべれば、あたしは、こうしておそばにいて、毎日毎日、お顔を見ている。
あたしは、王子さまのお世話をしてあげよう。
心から王子さまをおしたいしよう。
そして、王子さまのためなら、この命もよろこんでささげよう」

ところが、そのうちに、王子は結婚することになりました。
おとなりの国の王さまの美しい王女を、お妃にむかえるという、うわさがたちました。
そのために、船もたいそう美しくかざりつけられました。
王子は、となりの国を見るために、旅に出かけるのだと言われましたが、ほんとうは、その国の王女にお会いになるためだったのです。
おともの人たちも、大ぜいついていくことになりました。
でも、人魚のお姫さまは、頭をふって、ほほえみました。
王子が心の中に考えていることは、だれよりもよく知っていたからです。

「ぼくは、旅に出なければならない」と、王子は、お姫さまに言いました。
「美しい王女に会ってこなければならないんだよ。
おとうさまやおかあさまが、そうするようにとおっしゃるからね。
しかし、その王女を、どうでもお嫁さんにして帰ってくるように、とはおっしゃっていないよ。
ぼくが、その王女を好きになんかなれるはずはない。
だって、修道院で見た、あの美しい娘さんに似ているはずがないもの。
あの娘さんに似ているのは、おまえだけだよ。
ぼくが、いつかお嫁さんをえらばなければならないとしたら、いっそのこと、おまえをえらぶよ。
ものをいう目をした、口のきけないすて子の、かわいいおまえをね」

こう言って、王子はお姫さまの赤い唇にキスをしました。
そして、お姫さまの長い髪の毛をいじりながら、お姫さまの胸に頭をおしあてました。
お姫さまの心は、人間のしあわせと、死ぬことのない魂とを、夢に見ているのでした。

「だけど、海はこわくないだろうね、口のきけないすて子さん」
おとなりの国へ出かける、りっぱな船の上に立ったとき、王子はお姫さまに、こう言いました。
それから、王子は、あらしのこと、海の静かなときのこと、深いところにいるふしぎなさかなのこと、それから潜水夫が海の中で見る、めずらしいもののことなどを、いろいろと話してやりました。
お姫さまはほほえみながら、王子の話を聞いていました。
だって、海の底のことなら、お姫さまはだれよりもよく知っていたのですから。

お月さまの明るい晩、かじとりだけが、かじのところに立っていました。
ほかの人たちは、みんな、寝しずまっていました。
そのとき、お姫さまは船べりにすわって、すみきった水の中をじっと見つめていました。
すると、おとうさまのお城が見えたような気がしました。
お城のいちばん高いところには、なつかしいおばあさまが頭に銀のかんむりをかぶって、立っていました。
おばあさまは、速い水の流れをとおして、船のほうをじっと見あげていました。

そのとき、おねえさまたちが、海の面に浮びあがってきて、お姫さまを悲しそうに見つめながら、もうだめだというように、白い手をもみあわせました。
お姫さまは、おねえさまたちのほうへうなずいて、ほほえみながら、なにもかもがうまくいっていることを話そうとしました。
ところがそこへ、船のボーイが近づいてきましたので、おねえさまたちは、水の中へもぐってしまいました。
ですから、ボーイは、今なにか白いものを見たような気がしましたが、それはきっと、海のあわだったろうと思いました。
あくる朝、船はおとなりの国の、美しい都にある港にはいりました。教会という教会の鐘が一斉に鳴り響き、高い塔からは高らかにラッパが吹き鳴らされました。
兵士たちは、風にはためく旗を持ち、きらめく銃剣を手にずらりと並びました。
毎日毎日、大きなお祝いの宴(うたげ)が開かれ、舞踏会をはじめとするさまざまな催しが次から次へと開催されました。
それなのに、この国の王女様は、まだ一度もみんなの前に姿を見せたことがありませんでした。
なんでも、ずっと遠くにある修道院でしっかりと教育をうけて、王女様にふさわしい、いろいろなお勉強をしているということだったのです。
そしてついに、その王女様が国へ帰ってきました。
人魚のお姫様は、その王女様がどんなに美しい方なのだろうと、早く見たくてたまりませんでした。そして実際に見てみると、なるほど、これほどまでに美しい姿の人はいままでに見たことがない、そう言うよりほかはありませんでした。
お肌はきめが細かくて、すきとおるように美しかったのです。
長い黒いまつげの奥には、まごころのこもった青い目が、にこやかにほほえんでいました。
「ああ、あなただ! ぼくが死んだようになって、海べにたおれていたとき、ぼくの命を助けてくださったのは!」と、王子様は大声でさけび、はずかしそうに顔を赤くしている王女様を力いっぱい抱きしめました。
それから、今度は人魚のお姫様に向かって言いました。
「ああ、ぼくなんてなんてしあわせなんだろう! どんなに願っても、とてもかなえられないと思っていた夢が、ついにかなえられたんだよ。
おまえも、ぼくのこのしあわせをよろこんでくれるよね。
だれよりもいちばん、ぼくのことをずっと思っていてくれたおまえだものね」
人魚のお姫様は、王子の手にそっとキスをしました。
けれども、その胸は今にもはりさけそうでした。
それもそのはずです。
王子様が結婚してしまったなら、その次の日の朝、お姫様は命を落とし、海の上のあわとなって消えてしまうのですから。
町中の教会の鐘が、高らかに鳴りわたりました。
使いの人たちが馬に乗って町中をかけめぐり、王子様のご婚約をみんなに知らせました。
どこの祭壇でも、りっぱな銀のランプの中で、よい香りのする油が静かに燃やされていました。
牧師さんたちは香炉をふり、あたりに香りをただよわせました。
花嫁と花婿はたがいに手をとりあい、大僧正さまからあたたかい祝福をうけました。
人魚のお姫様は、絹と金糸で美しく着かざり、花嫁の長いすそをそっとささえていました。
けれども、お祝いの音楽は、もうお姫様の耳にははいりません。
おごそかな結婚の儀式も、目にはうつりませんでした。

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