初級翻訳・仙人 第2話

仙人

もちろん、仙人になる術なんて知っているはずがないから、何でも権助にできそうもない難しいことを言って、もしそれができなかったら、また次の二十年間、ただで働かせようと思ったんだろうね。

しかし、権助はその言葉を聞くとすぐに、庭の松に登ったんだ。

「もっと高く。もっとずっと高く登って。」
奥さんは縁側に立ちながら、松の上の権助を見上げたんだ。
権助が着ていた家紋のついた羽織は、もうその大きな庭の松でも、一番高い梢(こずえ)でひらめいている。

「今度は右手を離して。」
権助は左手にしっかりと、松の太い枝をおさえながら、ゆっくりと右手を離したんだ。

「それから左の手も離しておしまい。」

「おい、おい、左の手を離したら、あの田舎者は落ちてしまうぞ。
落ちたら下には石があるし、とても命はないぞ。」
医者のおじさんも、とうとう縁先へ、心配そうな顔を出してきたんだ。

「あなたの出る幕ではありませんよ。まあ、私に任せておきなさい。
さあ、左の手を離すのだよ。」

権助はその言葉が終わらないうちに、思い切って左手も離したんだ。
なにしろ木の上に登ったまま、両手を放してしまったのだから、落ちずにいるはずがない。

あっという間に権助の体は、権助が着ていた家紋のついた羽織と一緒に、松の梢から離れた。
でも、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間のお空の中空(ちゅうくう)に、まるで操り人形のように、ちゃんと止まったじゃないか!

「どうもありがとうございます。おかげさまで私も一人前の仙人になれました。」
権助は丁寧に頭を下げると、静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へと昇って行ってしまったんだ。

医者夫婦はどうなったか、それは誰も知らない。
ただ、あの医者のおじさんの庭にあった松は、ずっと後までも残っていたんだ。
なんでも淀屋辰五郎(よどや たつごろう)という人は、この松の雪景色を眺めるために、四人が抱えきれるほどもある大きな木を、わざわざ庭に運び込ませたそうだ。
(大正十一年三月)

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