初級翻訳・塩原多助一代記 第36話

塩原多助一代記

……ところで、あなた方はこれからどちらへお出でなのですか? もし江戸へいらっしゃるなら、本街道の中山道へ出てはいけませんよ。お尋ね者の人相書きが回っていますから」
丹治「ええっ、人相書きが回っているだと? それは一体どういうことだ」
おかく「それはご自分のお心に聞いてみてくださいな。詳しい訳は知りませんが、噂を聞くところでは、沼田の下新田の後添いのおかめさんが、領主・土岐様の家来である原丹治という男と悪事を働き、家に火を放って逃げたとかで、役人の手先が人相書きを持って追っているそうです。ですから、中山道へは出られません。雪が解ける三月頃までここに隠れていらっしゃれば、少しはほとぼりも冷めましょう。今行くのは危ういものでございます」

そう言われて、丹治はおかめと顔を見合わせました。
丹治「実は、火を放つ気まではなかったんだ。おかめも亭主がいる身の上ではなし、私も独身者ゆえ、つい悪いことをしてしまった。すると百姓連中が大勢寄ってきて『叩き殺してやる』と鋤や鍬を持って取り囲むものだから、逃げ場がなくて、やむを得ず火をかけて逃げたのだ。だが、人相書きまで回っているとは知らなかった。婆さん、大した礼はできんが、二人分の食費を出す上に、少々の心付けもする。三月までここに置いてくれないか? 役人が調べに来るようなことはあるまいか」
おかく「めったには参りませんが、来ても村役人がお触れの書付を持ってくる程度のことです。それに、お二人さんが泊まっている間は他の旅人は追い返してしまいますから、お心置きなくゆっくりしていらっしゃい」
丹治「婆さん、ここへ来たのはかえって仕合わせだった」

そう言って懐から十両を取り出し、おかくに渡しました。
丹治「これはほんの少しだが、二人分の手当として受け取って、米や薪でも買ってきてくれ」
婆さんは大いに喜びました。
おかく「ご心配なさいますな。酒でも買ってまいりましょう」
こうして、おかくは二人を丁重にもてなし、彼らは三日間、そこに隠れ住むこととなりました。三日目の日暮れ時、婆さんが酒を買って戻ってきました。三人で酒宴を楽しんでいると、土間の入り口から、菅で編んだ深い三度笠を肩に掛け、しけに強い合羽をまとい、千草色の股引に草鞋という、旅慣れた姿の男がひょっこりと入ってきました。
この男は「継立の仁助」という、強請(ゆすり)やたかりを生業とする悪党でした。

仁助「お母(かあ)、家か?」
その声を聞くや否や、おかく婆さんは飛び出し、いきなり仁助の胸ぐらをつかむと、その横っ面を力いっぱい殴り倒しました。突然のことに仁助は驚き、
仁助「お母、一体何をするんだ!」
おかく「何も糞もあるものか! よくもまあ、のうのうと顔を出せたもんだ。お前が変な知恵をつけたせいで、倅(せがれ)を牢死させる羽目になったんだよ、この野郎!」
そう怒鳴りながら、何度も何度も殴りつけます。仁助はますます驚き、
仁助「ああっ、痛いよ! 何をするんだよ!」
おかく「何だって? 今すぐここへ来い。名主のところへ引きずっていってやる!」
そう言ってボカボカと殴りながら引きずり、木陰まで連れて行くと、
仁助「一体、何がどうしたんだ?」
おかく「何がどうしたじゃねえよ! 無闇に家へ入ってきやがって。己は今、比丘尼の身分なんだよ。それにお客さんが居ることも知らねえのかい?」
仁助「突然殴りかかってくるから訳が分からないよ。それに、兄貴が牢死したっていうのはどういうことだ?」
おかく「あれは出まかせだよ。私の言うことを真に受ける奴があるもんか。お前を殴ったのは、泊まっている客が二人いるからだよ。徹底的に厳しく殴らなきゃ、客に疑われるだろうが。あの客人は原丹治とおかめという奴で、お前も知っている下新田の後家、お梅の本当の親のおかめが泊まっているのさ。金を持ってそうだが、丹治が私を斬り殺しそうな勢いだったから、改心して尼になったと言い、兄貴はお縄になって牢死したと嘘をついておいたんだ。それなのに、お前が兄貴の話なんか出すから、化けの皮が剥がれるだろうが。お前も気が利かないね」
仁助「だって事情を知らなかったんだから仕方ないだろ。突然飛び出してきて殴りかかってくるから、何事かと思ったよ」
おかく「ところで、お前がそうして来る間に、兄貴はどうしたんだい?」
仁助「兄貴なら北牧まで来ているよ」
おかく「まあ、耳を貸しておくれ」
仁助「貸してやるよ」
おかく「暗くてよく見えないね」
そう言いながら耳元に口を寄せ、しばらくコソコソと内緒話をして、
おかく「いいかい?」
仁助「それなら、間違いなくやるよ」
おかく「失敗しないように、夜の九つ(午前0時)過ぎにだぞ。いいな?」
そう言って仁助と別れると、おかく婆は顔色をがらりと変えて家に戻り、
おかく「さぞやお驚きでございましたでしょう」
丹治「驚いたよ。一体何であんなに腹を立てていたんだ?」
おかく「あれは仁助という悪党でしてね。倅より年上なものですから、悪い知恵ばかりつけて、悪の道へ引きずり込んだ奴でございますよ」
丹治「お前だって年上で、相当な悪党じゃないか」
おかく「私の悪事は今に始まったことではありませんが、あいつのせいで計画が狂い、倅を牢死させることになりましたから、私にとっては敵同士。憎い奴だと思っていたら図々しくやってきたので、そのままにしておけば村の迷惑になります。名主のところへ引っ張っていけば、すぐに縛られて北牧へ送られるでしょう」
丹治「あんな悪党は来ない方がいい」
……などと話しながら酒を酌み交わしました。おかくは丹治を酔わせようとしてむやみに盃を勧めたので、丹治はぐっすりと酔い潰れてしまいました。寝床に就く頃には雪も止み、風の音だけが強く聞こえていました。

夜の九つを過ぎた頃、音を立てないように台所の入り口から、おかく婆さんの連れの小平が、手ぬぐいで顔を深く包み、三尺あまりの小長い柄に革を巻いた胴金造りの刀を差して忍び込んできました。千草色の股引に脚半、甲掛けという姿で、仁助も同じく忍び足で入ってきましたが、盗賊稼業ですから手慣れたものです。
おかくの寝床へ近づき、声を潜めて、
小平「お母、お母」
おかく「慌てちゃいけないよ。先ほど仁助に言った通りにしな。逃げられちゃいけないよ」
仁助「本堂のそばに寝ているのか?」
おかく「本堂の前だよ」
そう指図を受けた小平と仁助の二人は、忍び足で近づき、丹治とおかめの布団の間に手を差し入れました。毎晩、二人の間に置かれた柳行李の中に金を入れて寝ていることをおかくは知っており、小平にそれを盗ませようとしたのです。しかし、その晩に限ってはおかめが金を取り出し、懐に入れて寝ていたため、小平はそのことを知りません。
小平は「これさえ盗めばいい」と思い込み、ぐいと手を中へ差し入れたところ、原丹治が目を覚ましました。
丹治「盗賊か!」
その声に驚いて小平が逃げ出そうとします。丹治は「逃がすものか」と枕元の刀を探しますが、おかく婆が昼のうちに隠してしまっていたため、刀はありません。
その隙を突いて、横から継立の仁助がいきなり斬りかかってきました。

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