初級翻訳・大望をいだく河童 第1話

坂口 安吾

昔、僕が池袋に住んでいたころの話だよ。小学校の子どもたちが、僕を見かけるたびに何度も丁寧におじぎをしてくるんだ。あまりにもみんながおじぎをしてくるから、そのあたりをわざわざ遠回りして歩かなきゃいけなくなったくらいさ。きっと、僕にそっくりな先生がいたに違いないね。

戦争中、神田にある創元社という出版社へよく遊びに行っていたんだけど、そこでも大学生たちに時々、ビシッとおじぎをされた。
いったいどこの先生が僕に似ているのか、気になってしかたなかったよ。

空襲で焼けてからまだ数日しかたっていない高田馬場駅でのこと。夜だったけれど、軍服を着た若い人(たぶん将校さんだと思う)に声をかけられたんだ。「第二高等学院の〇〇先生じゃありませんか?」って。これは明らかにある名前を言われたんだけど、忘れちゃった。

人違いで挨拶をされるのは、なんだか決まりが悪いものだよね。蒲田の占い師さんのところへ行って、僕が手を出して見てもらおうとしたら、
「旦那、私をからかっちゃいけませんよ」
なんて言われちゃった。
僕のことを占いのプロだと思ったのか、それとも蒲田の町で顔のきくボスに似た人がいるのかもしれない。

井伏鱒二さんが高い声でこう言ってきたんだ。
「おい安吾、お前、とんでもないぞ!」
「どうしてさ?」
「銀座を歩いていただろう。おい安吾って呼んで、後ろから背中を叩いたら、新田潤さんだったじゃないか。恥をかいちゃったよ。本当によく似ているなあ。全くとんでもないやつだぞ、こら!」
後日、浅草のお好み焼き屋さんで初めて新田潤さんに会ったんだけど、そんなに似ているものかなあ。

中村地平くんと僕が一緒に歩いていると、「どちらがお兄さんですか?」って二、三回聞かれたことがあった。一度「似ているな」と直感しちゃうと、誰でも似ているように見えてしまうんだろうね。中村くんと僕は、まゆ毛が濃くて太いところが共通していたんだ。

昔、小林秀雄さんはお酒に酔っぱらうと、僕に向かって「おい、河童(カッパ)!」と言ってきた。
たぶん、僕の髪の毛がおでこに垂れているせいだろうね。
でも僕は、「変なことを言うやつだなあ。お前の方がよっぽどカッパに似ているじゃないか。カッパの絵を見てごらんよ。尖ったくちばしとか、三角にすぼまったアゴとか、小林にそっくりだよ」と思っていた。
「おい、カッパ!」
「変なことを言うなよ。僕の顔にお前の顔が映って見えているんじゃないのか?」
「なんだよ、カッパ」
……全くわけのわからない男だよ。だからみんな、彼のことを「自分の考えを押し通す人」って呼ぶんだ。

時々やってくる雑誌の記者が、ある日、すこしモジモジしながらこんなことを言った。
「先生、実は先生にそっくりな人がいるんですよ」
「誰にだい?」
「はあ、実は……僕の田舎にいる物乞い(ホームレスのような人)なんですけど」
僕はガクッときたけれど、なんとか気を取り直して聞いてみた。
「どのあたりが似ていたんだい?」
「どこもかしこも、うり二つなんです。でも、なんだか『大きな夢(大望)をいだいている様子』が、そっくりなんですよね」
だから僕は、ジャーナリストには会いたくないんだ。礼儀というものを知らないんだから。

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