初級翻訳・吹雪物語 第19話

吹雪物語

そういった感じはかなり頻繁に経験したが、幻覚と呼ぶべきほどの明確な重みや実感を伴うものではなかった。
したがって、野々宮は筆を止め、この唐突な不安によって一気に冷たい現実へと呼び覚まされた思いがしたが、やがて理知が、彼を普段の落ち着きへと戻してしまうのであった。両側から差し伸べられた死者の頬が、彼の頬にまざまざと触れたときの冷たい悪寒。それが、むしろ次第に鮮明に蘇ってくるようだった。しかし、改めて振り返ってみれば、必ずしも現実味のある感覚ではなかった。
午後四時という時刻になると、突然、仕事が空虚なものに感じられてくるのだった。
もはや筆を投げ出さずにはいられない。
そして、あてもない不安が始まるのだ。
ちょうど絶望の暗い夜が、近づきかけているのである。
そして彼は、街へと追い立てられていった。

野々宮が卓一に親しみを抱く気持ちは、逆らうことのできないものだった。
もとより彼は、自分の中に嫉妬があることを知らないわけではなかったから、卓一が自分の味方ではないことは理解していた。
しかし、彼を味方であるかのように思うことが、自分にとって不自然ではない心の状態でもあったのだ。
野々宮の嫉妬は、主として、単なる心の混乱が意識されるすべてであった。
嫉妬の対象に対する意識は、希薄なのである。
そして表面の感情をどのように分析してみても、卓一への憎しみが、はっきりとした形を持って浮き上がってくることはなかった。
それどころか、反対に卓一へ寄せる親愛の情の流れを、食い止めることができないのだ。
秘密の心のからくりが時に不快なものであったし、苦笑もしてみたが、その親しみの自然な流れは、始末のつかないものでもあった。
流れを食い止めることもできないし、まして憎しみを煽ることなど、できそうでいて、できないのだ。
「すでに愛は心になくとも、未練は心にありうるのだ」と野々宮は思った。
そして未練すら心になくとも、嫉妬のみは存在しうるらしい。
憎しみすら抱けないのに、それでも嫉妬だけはありえるのだろうか。
身に染みるような、遠い想い。
この親しさ。
豊かな気配に包まれたこのあたたかい友情を、どうすることもできないのだった。
野々宮が卓一を訪ねたのは、その親しさの自然な結果であったのである。
ほかに目的などなかったのだ。

「君の奥さんは、湯の浜温泉にいるらしいね」
遅れて入ってきた大谷は、野々宮の顔を見るなり、席に着くこともせずに話しかけた。
この多忙な事務家は、でっぷりとした、血色のいい男だった。
一つの場所に三十分とじっとしていられない風だった。
「ああ。畜生。人の心配も知らないで、それぞれ、のんびりしやがって。へえ、温泉とは、しゃれたものさ。この俺は、生まれてこのかた、温泉の匂いも嗅いだことがないのだぜ」

野々宮の妻は、せっかく突き止めた雑貨屋の二階から、再び夫が姿をくらましたことを知ると、彼女も子供を連れて新潟を立ち去っていた。
実家に帰ってもいなかったのだ。大谷は彼女の行方を探していたのである。
「今朝、手紙をもらったのさ。女という奴は、世慣れた文章を書きやがる。達者なものさ。ああ、畜生。俺の方が死にたいくらいだ。俺は多忙で行けないが、明日、誰かしっかりした奴に湯の浜温泉へ行かせて、実家まで付き添って行かせよう。人間という奴は諦めの悪い動物さ。石にかじりついてでも生きたいんだ。俺に失恋させてみろ。ビフテキを三十枚たいらげてやるぜ」

野々宮は卓一に言った。
「孤独すら味方でなくなったとき、人間はみじめですね。夢すら許されないのです。夜の道を歩いているときがありますね。目的もなく歩くことができるとき、人の心にはまだ健康が宿っています。目的なしには歩くことすら出来なくなるときがあるのです。そこに居ることすら出来なくなるときが」
そしてようやく弁護士に向かって答えた。
「あなたの健康は羨ましいですね。中国の物語に、大酒飲みが身体から酒虫を追い出したら家運もまもなく没落し、健康も衰えて死んだという話があるそうですね。その教訓を僕も信じているのです。その人の魂が好きなものの中にあるとすれば、僕の好きなものは、休息だけですから……」

卓一はいくらか呆気にとられながら、野々宮のやつれた顔から一度も消えることのない、慇懃(いんぎん)な苦笑を見つめ続けていた。
なんて贅沢な男だろう。卓一は思った。
自分を語ることだけがすべてなのだ。
弁護士のもたらした妻の話にはまだ一言も答えていない。
そして自分のことばかりである。
何よりも、その慇懃な苦笑ばかりがやりきれなかった。
この男はいつも客間にいるような男だ。
路傍に放り出されても、ほかの手段を持てない男であるらしい。
思想も感情も、客間の礼儀の中でしか運用できない人のような気さえした。
食欲を満たすために山海の珍味を求めるような贅沢を知らない。
その代わり、魚肉の片身に箸をつけて、裏側を食べることを知らないような、食欲とは脈絡のない、肉感の希薄な贅沢が骨身に沁みているようだ。
箱庭の中に住む別世界の人のような感じもした。
そしてただ、心の冷たさのみが、この世の最も激しい力で、卓一の胸を刺していた。
――俺でさえ、と卓一は思った。
この男ほど冷たくはないようだ。
第一、あの慇懃な苦笑が……それはただ一途に、残酷なものを感じさせた。「三遊亭喜楽が、佐渡で心中しようと思いとどまったときの話ですが、ちょうど僕も暇でしたので、佐渡へ行く代わりに二人で旅行に出かけたのです。湯の浜温泉へ行ったのですよ。僕も初めての土地でしたが――」

野々宮は語り始めた。大谷は整理のつかない仕事があると言って、食事の途中に立ち去っていた。野々宮は話をしながら、コーヒーカップへしきりに砂糖を入れ続けた。目は明らかにカップの位置を見つめているにもかかわらず、右手は同じリズムを繰り返して、砂糖壺とカップの間を往復していた。コーヒーはすでに皿にまで溢れていた。彼は気づいていないのだろうか。それとも、わかっていて遊んでいるのだろうか。

「湯の浜をご存知ですか。山形県にあるのです。鶴岡に近い海岸沿いの温泉ですが、後ろに山を背負った地形なんですね。伊豆あたりでは当たり前のことですが、このあたりでは珍しい地形なのです。山形県とは言っても、県境に近いせいもあって、新潟の人たちが自分たちの温泉のように遊びに行きます。ちょうど初冬の、この季節のことでしたが、雪の多い年で、この土地も、湯の浜も、毎日雪が降り続いていたのですね」

「湯の浜へ着いた晩のことですが、真夜中になって、喜楽が一風呂浴びてくると言って立ち上がったのです。あの人は痩せていますが背が高いので、宿の浴衣が短すぎて滑稽な格好なんですね。タオルをぶら下げて廊下へとんとんと消えていく足音がしていました。客の少ない季節のうえに、雪の降る深夜ですから、あたりの物音は死んでいるのです。すると喜楽が青い顔でたちまち戻ってきたのですが、足音を消すような歩き方をしてきたくせに、息を切らしているのです。動悸まで聞こえるのですね。

どうしたのですかと尋ねてみますと、湯船の底に死んだ男が寝ていると言うのです。

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