初級翻訳・吹雪物語 第34話

吹雪物語

由子は旅から帰ってくると病気になり、しばらく寝込んだ。
その深酒や、不規則な生活が原因だった。
そして、由子と卓一の間に芽生えはじめた愛情が、わずかばかりの病気の期間に、すでに冷めようとしていた。
由子は思った。
この愛情は、感傷の玩具のようなものだった、と。
人が、まして肉体が、本当に恋をしていたわけではなかった。
まるで二人の感傷が、その適当な衣裳を見つけただけのようだった。
自分以上に、むしろ卓一のほうが、その感が深いだろうと由子は思った。
いや、感傷は卓一のみにあったのだ。
由子はそうも思うのだった。
卓一の感傷が、由子に同じ感傷を強要したのだ、と。そして、二人の感傷が、それにぴったりの衣装を見つけて、恋の真似事をはじめたのだ。
まるで感傷のための感傷だった。
自分の意志など微塵もなく、ただ卓一の好む衣装を着るために一生懸命になっていたのだと、ふと気づいてしまったような気持ちになる。
そして、卓一を憎む思いが時折めばえてくる。
すべてを嫌ってしまいたいという気持ちに落ち込んでいく。
なにもかもが、ひたすらに退屈だった。
もともと、恋愛なんて退屈なものなのだ。
由子は思った。
恋愛とは、七面倒くさいポーズをとらずにはいられないものなのだと。
人と人との関係なんて、元来すべてがポーズの上の動きにすぎない。
なんてうるさいことだろう。
あらゆる人が、うるさいのだ。
そして特に愛情というものは、うるさいポーズを強要してくる。
もし愛情が人の生活を支配してしまったら、どうなるのだろう。
ポーズが人の生活を縛り付けてしまうに違いない。
それは、ひとつの牢獄にすぎなかった。
恋愛はうるさい。
恋愛は生活を超越していて、しかもひどく非凡なものだ。
苛立ちと共に由子は思った。
けれども日常や人生は、もともと平凡なものだ。
そんな平凡な人生にとって、恋愛という非凡なものは、何の役にも立たない後悔や退屈を生み出す役割しか果たさないのだ。
非凡な恋愛は、生活にとって暗い負担であり、むしろ邪魔者でしかなかった。
由子にとって、すでに卓一の存在はうるさいものとなっていた。
彼女は自分が病気であることを、卓一には知らせなかった。
しかし、もし卓一が見舞いにやって来たら、機嫌が直ってしまうかもしれない、などと考えずにはいられない心もあった。
そうした心の饒舌ささえも、うるさくてたまらない。

「東京へ引っ越しましょうか」
由子は病床から母に言った。
「私、働こうかな。ショップガールでも、タイピストでもいい。平凡な男と平凡に結婚してもいいと思っているの」

贅沢さえしなければ、生活に困ることはなかった。
母と娘、二人の家庭だった。
一人娘への愛と、由子の勝気な性質に引きずられて、母は由子の欲しがる多くのものを許してきた。
しかし、由子が踊り狂い、酒を愛し始めてからは、内輪の暮らしを切り詰めるために、食事の回数を減らすほどのひそかな苦しみを母は隠してきた。
そして、すべての苦しみが、いつも諦めへと変わっていった。
暗い冬空の下で、忍耐強く、そして諦めやすいひとりの老母であったのだ。
そんな女にとって当然の考えとして、彼女が望む最大のことは、変化なく生きること、そしてこのまま何事もなく一生を終えるという安らかさだった。
たとえ現実がどれほど苦悩に満ちていようとも、生活を変えることで多少の光が射す可能性があるとしても、それでも変化のない生活の安らかさを捨てる冒険を、母は恐れていた。

「知らない土地へ行ってみたところで、どうにもならないよ」
老母はつぶやいた。
それは独り言だった。
反論の言葉ではなく、返事ですらない。だからこそ、由子も侘しさに胸を突かれ、言い返すことができなかった。

「お妾さんになってしまおうか」
ある日、由子はだしぬけに言った。
すでに一年以上も過ぎただろうか。
かつて、そのような話を仲介しようとした人がいた。
相手は地元の富豪だった。
人口十五万足らずの小さな都会のことだから、踊りや酒場に出入りする女は人目に立ちやすい。
由子が漁色家の目に留まり、妾の標的にされたのも、無理のないことだった。
「あの女はパトロンを探しているに違いない」と、年老いた遊び人たちが噂し合っているほどだった。
妾の話が初めて持ち込まれたとき、母と娘は思わず笑い出してしまった。
真面目に取り合うことはなかったが、しかし二人の胸の底には、口に出すことをお互いに怖れるような、不気味な不安が育ち始めていたのだ。
人々は知っている。彼女たち自身さえ気づいていない、彼女たちの姿を。
まるで、命そのものとも言える部分を、他人に見透かされているかのように。
すでにそのとき、自分は妾にもなりうるのだということを、由子は教えられていたのだ。

いっそ妾になろうかと、由子はその後、時々考えた。
恋愛はうるさいからだ。
真実の生活。偽りのない自己。
そんなものもみんな、うるさい。
おまけに、正体すら分からない怪物のような気がした。
真実の生活なんて、一日中、一年中、他人に監視されながら生きているようなものではないか。
なんて窮屈なことだろう。
由子は思った。
偽りのない自己。
そんなものにこだわり始めると、かえって自分自身の心の中に、一人の他人を住まわせるようなものだった。
嘘をつき、偽りの日々を暮らす方が気が楽だ。
安らかなのだ。
そして、嘘の幸福だって、やはり幸福のうちではないか。
その機会と思いが巡ってくれば、いつでも真実の生活へ乗り換えることはできる。
偽りの生活こそが、実は真実なのだ。
偽りの生活に彩りを与え、豊かさを与えるために、真実という悲しい虚偽が必要なだけなのだ。

「僕たちは、自分を投げ出してしまいやすいんだ」
あるとき、卓一が由子に言った。「自分を投げ出すことには、何か突きつめた激しさがあるようだね。
僕たちは、ついその突きつめた激しさを、真実のものだと誤解してしまいやすい。
私たちは神のような理想を持ちながら、悪魔のような心に走ることも簡単にできてしまうんだ。
そして人は、自分がこれまで守ってきた理想や自分自身を投げ捨ててしまう時ほど、その激しさに酔いしれることはないだろう。
捨ててしまったとき、人は裸の状態になるのかもしれない。
けれど、裸であることが、その人の真実の姿というわけでもなさそうだね。
人は結局、何らかの衣装をまとっていなければならないものなのだろう。
裸になったとき、人は自分を裏切るばかりなのだから」

由子もまた、同じような考えに陥りやすかった。
妾になること。
それを聞いたら、卓一はきっと笑うだろう。
「いよいよ自分を投げ捨てたんだね」と。
すでに笑われているような気がした。
卓一という男は、最も愚かしくない愚か者であり、最も気取っていない気取り屋だ。

「新潟なんて、ケチくさいわ。だいいち、この暗い天気だけでもうんざりする」
由子は再び病床から母に向かって叫んだ。
「東京へ行きましょう。喫茶店でも開こうかしら。それとも、平凡にどこかの誰かと結婚してしまおうか」

平凡な結婚。卓一はそれも笑うだろう。
そして彼は冷やかすに違いない。自分を捨てるにはいろいろな方法があるものだね、と。

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