初級翻訳・日月様 第5話

坂口 安吾

そして、そうやって太ももを平然と見せる彼女の態度は、まるでどこにだていそうな普通の女性の、何の変哲もない態度そのもので、私はおかげで急にホッとしたほどでした。

「じゃあ君は、絵描きの卵なんかでもないのかい?」
「まあ、それくらいの嘘なら私だって、なんとかかんとか……それも商売のうちよ。
でも、油絵を2、3枚描いたことくらいはあったわよ。
だって、あまりに根拠のない嘘をついたって、この世の中では自分が虚栄心の塊だからこそ、他人の虚栄心を見抜くのにも敏感になるものなのよ」

話し始めると、先ほどまでの押し黙った陰気な雰囲気はすっかり薄れ、彼女は案外のんびりと気楽な様子でした。
それでも、私にはどうしても腑に落ちないことがありました。
彼女が病院へ麻薬を持って見舞いに来てくれた時から、どこにも狂人らしい変わったところなどありませんでした。
もともと、狂人というのはそういうものなのです。
私は精神病院で、そのことを骨身にしみて学んでいました。
発作が起きた時でなければ、一見しただけでは見分けがつくものではないのです。
いわば、あらゆる人間に犯罪者の素質があるように、あらゆる人々に狂人の素質があると考えても差し支えない。狂人というのは、単にその「度合い」の問題なのだという見方すらできるほどでした。

私は精神病院を出て以来、それまでのひどい不眠症が嘘のように、ぐっすりと眠るようになっていました。
もっとも、東大でもらった催眠薬を飲んでおり、これがちょうど夜明け方になって効いてくる性質の薬でした。
朝食をとったあとで、もう一度ひと眠りするのがすっかり日課になっていました。

私は翌朝目が覚めると、朝食をすませたあと、女性を帰らせて、私だけもう一度ベッドにもぐり込みました。
ぐっすりと眠りました。
その前日まで仕事を続け、相当な過労がたまっていたせいもありました。
ふと目が覚めると、すでに昼下がりを過ぎていました。
宿の人にあらかじめ頼んでおいたので、お風呂もすぐにわいていました。
お風呂から上がり、私はおいしくお酒を飲みました。この旅館には、まだお手伝いさんもいなくて、ご主人とおかみさんだけでやっているようです。子供もいません。
「いやあ、王子君には本当に驚かされましたよ」
私は宿のおかみさんに話しかけました。
「あの人の女装にも呆れたけれど、昨夜の話しぶりがどうにも納得いかなくてね。女性が太ももに刺青を入れて、その出来栄えが気に入らなくて自分の肉をえぐり取った、なんて言うんだ。
これがまったくの真っ赤な嘘なんだけど、話している時の真剣な様子にはものすごい迫力があって、ちょっとやそっとの嘘なんかじゃなかったねえ。
太ももをえぐり取ったなんて話は、その女性と一緒に寝ればすぐにバレてしまうことだし、どうにもあの人の考えていることが分からない。
あの女性は王子君のことを頭がおかしいって言っていたけれど、昨夜の一件を除けば、どこにも狂っているようなところは見当たらないしね。
あの女性と深く愛し合っているのかと思えばそうでもなさそうだし、むしろ女性にすっかり頭が上がらず、いいように扱われているような感じだったな」
おかみさんは静かにうなずきました。
この家が、ただの旅館なのか、待ち合わせ場所なのか、それとも普通の料理屋なのかよく分からないのと同じように、このおかみさんにも、商売慣れしたすれっからしなところがありませんでした。
そのくせ、やっぱりどこか商売人上がりのような、掴みどころのない雰囲気がありました。
おかみさんは少しきまり悪そうな笑みを浮かべましたが、すぐに真面目な顔に戻って言いました。
「キミちゃんは毎晩のように男のお客様を連れてきてくれるんです。
こんなことはあまり言いたくないんですが、頭がおかしいというか、まあ、一種の病気なんでしょうかねえ。
連れてくる女性は、男のお客様によってそれぞれ違うんですよ。
それはお客様の好みもあるんでしょうけれど、キミちゃんが殿方のお人柄に合わせて選んだり、キミちゃん自身のこだわりがあったりするのかも知れませんね」
そこまで話すと、おかみさんは少しがっかりしたような顔をして、言葉を区切りました。
「でもね、キミちゃんが女の子をお客様に紹介する時の決まり文句というのが、いつだってまったく同じなんですよ。
今あなたがおっしゃった通りの、太ももの刺青をえぐり取ったっていう話なんです。
それから……もしや、日月(じつげつ)なんて言葉も使いませんでしたか?」
私はなんだかポカンとしてしまいました。
「ええ、ええ、言っていましたとも!
男が太陽で、女がお月様、二人は一対の日月だってね」
私はすっかり落ち込んでしまいました。
あの女性が絵の天才で、私が文学の天才、だから二人合わせて「日月」なんだなんて、そんなふうにすっかり思い込んでいた自分の勘違いさ加減は、まるでバカみたいでした。
「日月っていうのは、いったいどういうことなんですか?」
おかみさんはまた、クスリと、どこか力が抜けたような笑い方をしました。
「『日月様』とでも呼ぶんでしょうかねえ。
キミちゃんが心の中で信じ込んでいる宗教みたいなものなんですよ。
男と女、それが日月。
でもねえ、キミちゃん自身、男のくせに女装して、つまり自分ひとりで太陽と月を同時に表現しているんだと思い込んでいるところもあるんです。
そのほかにはこれといって変わったところもないし、もともとは気立ての優しい、おとなしい人なんですけどねえ……」
ポカンとしている私に、おかみさんは何でもないような顔で付け加えて言いました。
「それにね、キミちゃん自身が自分の太ももの肉をえぐり取ったっていうのは、実は本当のことなんですよ。
キミちゃんのおかみさんが、人間の肉を食べてみたいとか何とか言ったとか、まあそれはただの噂ですけれど、とにかく色々複雑な事情があったんでしょうねえ。キミちゃんが思いつめたあげく、自分の太ももの肉をナイフでえぐって、おかみさんに食べさせたんだなんて……まあ、どこまで本当か分かりませんけどね」
私はもう、返す言葉もありませんでした。
それもそのはず、私自身が精神病院を退院してから、まだ一週間ほどしか経っていない時期の出来事だったのですから。
私はその話の真偽を確かめようという気すら起きませんでした。
まるで、これまでの出来事すべてが、自分の見ていた悪夢にすぎないような気がしたのです。
何もかもがすっきりとは理解できませんでしたが、もう深く考えて納得しようとも思いませんでした。
そして、私は呆然としたまま自分の家へと戻りましたが、それから三日後の新聞に、麻薬密売グループが一斉に検挙されたという記事が出ており、その中の一人に「王子君五郎」という名前がしっかりと載っていたのです。
私は今でも、なぜか胸のつかえが取れず、溜息が止まらないような思いでその日々を振り返っています。

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