一
それは、猛烈な風と大雨が吹き荒れる夜だった。
遠江の国、浜松城の丸の内(曲輪うち)にずらりと並ぶ武士たちの屋敷は、すさまじい暴風雨に激しく揺さぶられ、今にもめちゃくちゃに押しつぶされてしまいそうだった。
なかでも榊原小平太康政(さかきばらこへいたやすまさ)の屋敷は、大手門を入ってすぐの東側にあったため、一段と風当たりが強かったらしく、見るも無残な有様だった。三棟ある武士の長屋のうち、まず二棟がなぎ倒され、康政が暮らす母屋さえも、軒先をめくり上げられ、雨戸(蔀)を剥ぎ取られてしまった。庭の塀などは、跡形もないほどすっかり吹き飛ばされていた。
家来たちは頭からすっかりずぶ濡れになり、闇を引き裂くような暴風に打たれながら、「何をやっているんだ!」と怒鳴り声を上げ、あっちへこっちへと大慌てで走り回っていた。
……すると、夜がすっかり明けた頃(夜半すぎた頃)になって、「端っこの長屋が危ないぞ!」という叫び声が聞こえた。
みんなが急いで駆けつけてみると、なるほど、すさまじい風にあおられて板葺きの屋根が波のようにうねり、長屋全体がきしむような悲鳴を上げながら激しく揺れ動いていた。「早く誰か太い綱を持ってこい!」「いや、後ろからつっかい棒をしろ!」と、みんなが口々に怒鳴り合っていると、その長屋の端にある部屋の戸が、ぎちぎちと嫌な音を立てながら内側から開き、中からむくっと一人の武士が姿を現した。
「わっ、なんだ、なんだ!」
みんなはあまりの不意打ちに肝を潰し、驚きのあまり飛び退いた。
家の中から出てきた男は、どこかぼんやりとした(漠然たる)目つきで、集まった人々を見回した。胸板が厚く、骨組みのしっかりした見事な体つきをしている。目も鼻も口も大きく、耳まで大きい。眉毛はくっきりと黒々して太く、パーツのすべてが大きめに作られていた。そんな男が、なんとも捉えどころのない雰囲気のまま、ぬうっと突っ立っている姿は実にあっぱれだった。
「おや、孫七じゃないか! おい、孫七だぞ!」
一人の男がようやく相手の顔を見分けてそう叫ぶと、それが引き金となって周囲は再び度肝を抜かれた。
「本当だ、孫七だ! いったいお前、中で何をやっていたんだ!」
「おれか? おれは別に何もしてないよ」
「何もしてないとは何だ、お前今までこの中で何をしてたんだよ!」
「寝ていたのさ……」
「あきれたやつだな! 見ろ、もう潰れかかっているんだぞ!」
「……だから出てきたのさ」
彼はまるで他人事のように平然と言い放った。
「だって、寝ているところに長屋が潰れてきたら、危ないだろ」
それから彼は大きな目でぽけーっと空を見上げ、額に手を当てながら、のんびりとこう言ったのだった。
「雨だな」と。
これが、われらが柿ノ木孫七郎(かきのきまごしちろう)である。
榊原家の孫七に対して、酒井左衛門尉忠次(さかいさえもんのじょうただつぐ)の家来には、石原寸度右衛門(いしはらすんどえもん)という人物がいた。
元亀元年六月の姉川の戦いで、徳川家康は織田信長からの頼みを受けて先陣を務め、朝倉軍を迎え撃って戦った。
そのとき、寸度は酒井忠次の先鋒(さきて)として、朝倉軍の側面を突くため、田んぼの間に挟まれた細いあぜ道を一隊の兵とともに進んでいた。
するとそこへ、信長がわずかな供を連れて馬で通りかかった。この様子を見るやいなや、信長は猛烈な剣幕で怒鳴りつけた。
まるでじじいやばばらが寺の参拝でもするかのように、田んぼのあぜ道を一列に並んでのんびり歩いている奴らがいるか! いまはまさに合戦の真っ最中だぞ!」
「お気になさるな」
寸度はびくともせず、すっかり落ち着き払って答えた。
「合戦はこれからでござる。今から田んぼに踏み込んで泥まぶれになったところで、一刻早く勝てるわけでもござまい……。織田どのの先陣は徳川、徳川のまた先陣は酒井、酒井のそのまた先陣はこの寸度でござる。先陣のことは先陣にお任せあれ」
つまり、こういう男が石原寸度右衛門だったのである。
孫七郎と寸度右衛門は、誰もが知る無二の親友だった。
孫七は、その顔のつくりが示す通り、すべてが大雑把でのんびり屋だった。決してせかせかと慌てない。しかもそのマイペースぶりがずば抜けていたため、「孫七を仲間連れにするな」という悪い噂が立つほどで、同僚たちの輪からはどうしても外されがちだった。
親友である寸度は、それが悔しくてたまらない。
「凡人どもには孫七の本当の価値がわかっていないのだ。あいつはそこらへんに転がっている雑兵どもとは、生まれ持った格が違う。よくあの目を御覧じろ!」
寸度は度々そう周囲に語ったので、人々も言われて孫七郎の目をじっくり見直してみるのだが、いかんせんいつもぼんやりとしているだけで、どこにそんな値打ちがあるのかさっぱり見当がつかないのであった。
すると寸度はますます熱くなり、「孫七はきっと将来大物になる! 必ずや竜となって天に昇る時が来るのだ。いまはただ土の中に身を潜めている(蟄伏している)だけなのだ!」と息巻くのだが、当の孫七郎はどこ吹く風といった顔をしているものだから、二人の対照的な様子がなんともおかしい。「ははあ、土の中の竜っていうと、つまり、もぐらのことだな?」と、周囲の者たちは面白半分にからかうのであった。
天正元年二月のある日のこと。
寸度右衛門が、ふらっと孫七郎の部屋を訪ねてきた。
孫七郎は部屋の真ん中にどっしりと座り込み、矢を二本そこへポンと置いて、なにやら首をかしげながら考え込んでいたところだった。寸度が部屋に入っていっても、孫七郎はちらりとも見向きもしませんでした。「何をしているんだい」と尋ねても、「やあ」と言うだけです。寸度は気にせずずんずん部屋に入り込み、その目の前にどっかりと腰を下ろしました。「おい孫七、矢を二本も前に置いて、いったい何を悩んでいるんだい?」
二
「おや、石原寸度右衛門か」
そう言って、孫七郎はようやくこちらを向きました。
「実を言うと、どうにも腑に落ちないことがあってね、この四、五日というもの、ずっと頭を悩ませているところなんだよ」
「いったい何がそんなにわからないっていうんだ?」
「ここに矢が二本あるだろ」
彼はいつものスローペースな口調で、一言一言にしっかりと力を込めて話し始めました。
「つまりこれは『二』という数だ。三でもなければ、一でもない。縦から見ようが横から見ようが二だ。なあ石原寸度右衛門、そうじゃないか?」
「そりゃ確かに矢は二本だが、それがどうしたっていうんだよ」
「算数のルールでは、二を二で割ると一になるというだろ? この二本の矢をこう、両方へ分けてみる。いいかい、一本をこっちへ、もう一本はこっちへ……。ところがどうだ、見てみろよ。やっぱり矢は二本のままだ。一にはならない。このとおり、ちゃんと二本ある。これじゃあ算数のほうが間違っているのか、それとも……」
「今日は大事な話があって来たんだ」
寸度は黙って二本の矢をそちらへと押しやりながら言いました。
「おい、算数なんかほっといてくれよ! 話っていうのは、こないだも言った『お嫁さん』のことだ。
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