その翌年、香葎くんは素顔くんを連れて、「私が以前に訪問してくれたお礼に」と言って、私の避難先である小諸(こもろ)まで来てくれました。
そのときは、香葎くんが叡子さんに代わって、素顔くんに肩をかしてあげていました。
ひたすらに小諸近しと汽車涼し 素顔
小諸に来たころに、素顔くんは、
「自分は目が不自由になってから鍼灸(しんきゅう)の勉強をしているので、一つ試してみましょう」
と言って、私の妻にハリ治療をしてくれ、私の肩も揉んでくれました。
香葎くんは、
「この頃、素顔くんの家の一角に『鍼灸治療』という看板を掲げたのですが、もともと大きなお屋敷の立派な旦那さまであることをみんな遠慮してしまい、一人も治療を受けに来る人がいないのです」
というお話をしてくれました。
そのころの前後は、素顔くんの詠む俳句が最も勢いよく盛り上がっていた時代だったように思われます。
乾坤(けんこん)に一擲(いってき)くれし大夕立
耳一つ恵み残され冬籠(ふゆごもり)
寒卵(かんたまご)取りに出しのみ今日も暮れ
農地改革のウワサが世間に広まってきたころから、素顔くんの俳句はピタッと作られなくなってしまいました。
香葎くんの手紙には、農地改革の問題が非常に素顔くんの神経をストレスで苦しめており、そのせいで俳句への興味を失ってしまったようだと書かれてありました。
そのころ、叡子さんは京都に出て、同志社(どうししゃ)で学んでいました。
素顔くんは、自分のそばをほとんど離れなかった叡子さんを、かつて自分が学んだ母校である同志社へと進学させて送り出したのでした。
農地改革の波は、それから間もなくしてやって来ました。
この動きは、たくさんの田畑や山林を持っていた安積家(あさきけ)を、土台から大きく揺るがしました。
それに続いて、財産税の支払いという問題も起きました。
そうした出来事の数々は、素顔くんの頭を深く悩ませました。
目が不自由である自分のふがいなさを、彼はとても悔しがりました。
目で見える感覚は、いよいよ完全になくなってしまいました。
これまでは「明るいか暗いか」くらいは分かっていたのに、それすらも全く見えなくなってしまったのです。
耳で聞こえる聴覚も衰えていきました。
「耳一つ恵み残され冬籠」と自分で詠んだ、あの頼りの聴覚さえも弱ってしまったのです。
食べる意欲もなくなっていきました。
「食べても美味しくないから食べない」と言って、ほとんど箸(はし)をつけない日が続きました。
そしてそれから間もないことでした、突然に素顔くんの悲しい知らせが伝えられてきたのは。
ある夜、二階の寝室に入っていったのですが、その翌朝には、静かに冷たくなった体になって眠っていたのです。
一時は九州に緒方句狂(おがたくきょう)くんという素晴らしい人がいて、それに対して山陰(さんいん)地方ではこの安積素顔くんが頭角をあらわしたのでした。
句狂くんはもともと炭鉱の作業員でしたが、ダイナマイトの事故で目を失い、絶望して自分の命を絶とうと決心したこともありました。
それが俳句に出会ったことで生きる気力を取り戻し、ついには立派な俳人として世に立つようになったのです。
しかしその後、胃がんになって亡くなってしまいました。
その死に臨む態度は、まるで高僧のように悟りきっていて、少しも悩んだり苦しんだりしませんでした。
目を奪ひ命を奪ふ「諾(はい)」と鷲(わし) 虚子
句狂くんは、どこか鋭い鷲(わし)のような雰囲気を感じさせる人でした。
そして今度は素顔くんも、目で見る力を失い、耳で聴く力を失い、ついには味わう力までも失って、まるで霧のように消えるが如く亡くなってしまったのです。
何よりもとり戻したる花明り 虚子
かつて散りゆく桜の花びらを見ながら視力を失っていった素顔くんも、今はすべての苦しみから自由になった世界に生まれ変わって、またきっと綺麗な目を取り戻していることでしょう。
同じような時期に世に現れ出た二人の目の不自由な俳人は、またほとんど同じような時期にこの世から消え去ってしまったのでした。
徂く春や身近きものに古りし杖 句狂
打水をあなやと杖に身を支へ 同
追ひすがり来る雷に杖急かせ 同
我が杖の赴くまゝに恵方道(えほうみち) 同
縁先に忘れられゐる杖のどか 同
虹描いて去りゆく雨師(うし)に雷きげん 同
杖さそふまゝに良夜の弱法師(よろぼし) 同
散る花の無ければ盲(めくら)つまらなく 同
稲妻にそむける顔を持たぬ我 素顔
小春日の我をとらへて離さざる 同
耳かせばかそけさの音枯野原 同
徒然(つれづれ)や文机(ふづくえ)よむ羽子の数 同
帰らねばならぬ西日の松縄手(まつなわて) 同
葉にけはい起りて落つる椿かな 同
行楽の我にむなしき蝶の空 同
残された未亡人のとし子さんに宛てて送った慰めの句。
冬の去るごと又春の来たるごと 虚子
叡子さんはお父さんの突然の死を聞いて驚いて家に帰り、喪に服して静かにお母さんのそばに寄り添って過ごしたあと、また京都に戻って同志社での学びを続けていました。
年老いた身にとって、月日が流れるのはとても早いものでした。
素顔くんが亡くなってから、もうあっという間に三年の歳月が過ぎ去ったのでした。叡子さんは同志社(どうししゃ)を無事に卒業して、しばらくの間は実家に帰って家族と一緒に過ごしていましたが、今度は親せきを訪ねるついでに、ちょっと東京へとやって来ました。
ちょうど香葎(こうりつ)くんも東京に出てきていて、二人一緒に連れ立って私のところへ遊びに来てくれたのでした。
下
久しぶりに会った叡子さんは、昔、素顔(すがお)くんにそっと肩を貸して、黙々と川までの道を歩いていたあの無口な少女とはまるで別人のように、すっきりと大人に成長していました。
髪型や洋服にはまだ少し女学生の名残りがありましたが、それでももうすっかり立派な大人の女性になっていました。
昔は何か聞かれても黙り込んでしまう女の子だったのに、今はこちらからの質問に対してはきはきと元気に答えてくれました。
物おじするような様子は少しもありませんでした。
以前、素顔くんの追悼特集号を出してくれた雑誌『木兎(みみずく)』の中に、未亡人であるとし子さんがこんなふうに書いているのを私は見かけました。
「実家の父、子供たちにとっては大好きなおじいちゃんが、子どもたちと一緒に火鉢を囲んで、しみじみとこんなふうに話しているのを、私は隣の部屋から聞き耳を立てるでもなく聞いていました。
『お父さんも、あんな大変な体で本当によくここまで生き抜いてくれたなあ。本当にお疲れ様だったなあ。今頃は体も楽になって、ほっと安心してくれているだろうなあ』
とおじいちゃんが話しているのを聞いたとき、私はハッとしたのです。
それまでの私は、自分の深い悲しみばかりに閉じこもっていました。そんな自分自身のあり方を深く反省し、亡くなった夫をはじめ、家族みんなに対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
そして、
『おじいちゃんが言ってくれた通り、本当にお父さんはよくがんばってくれたんだわ。
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