初級翻訳・榎物語 第2話

榎物語

そうしているうちに夜はすっかり明け、辺りの寺々から鉦(かね)や木魚の音がしきりに聞こえてきます。街道筋と思われる場所に出ると、百姓たちが大声で話をしながら野菜を積んだ荷車を引いていく姿が見えました。これでようやく二本榎から伊皿子(いさらご)あたりに出たのだと方角が判明し、急いで芝の学寮へと戻りました。

しかし、実は今日まで、身を持ち崩してはいても、さすがに外泊したことは一度もありませんでした。いつも夜が明ける前に戻り、人知れず寝床にもぐり込んでいたのですが、今はもう時刻を過ぎてしまい、寮にこっそりと入り込むことも叶いません。それに、百両もの金の隠し場所にも困り果て、そのまま引き返してとぼとぼと大門のあたりまで歩いていくと、突然後ろから「もし良乗殿、早朝からどこへお出でか?」と声をかけられました。びっくりして振り返ると、浄光寺という山内の末寺の所化(修行僧)で、私と同じように折々遊郭に出入りしている、得念(とくねん)という坊主でした。

京橋まで用があるとのことで、道々一緒に歩くことになりました。私の様子がいつもと違っているのを見て取り、何か事情があるのだろうと執拗に問いかけてきます。果ては得念自身も聞かれもしないのに、自分の身の上を打ち明け始めました。得念は木挽町に住む商家の後家と長年道ならぬ仲で、噂にも上るため度々師匠から注意を受けていたそうです。
ところが後家の方でも身持ちが悪く、親戚中でもいろいろと揉めていたところ、万が一間違いがあっては外聞に関わるとのことで、結局、得念を還俗(僧籍を離れること)させた上で、婿養子として迎えることになったそうです。内密の話も既に決まっているため、浄光寺の住職には改めて挨拶し、二、三日のうちにはこの抹香臭い法衣を脱ぎ捨てるつもりだと言います。「人間、若い時は一度きりだから、お前も今すぐ将来を考えたほうがいい」と説教を続けられました。

その日は得念に誘われるまま後家の家へ立ち寄り、いろいろとご馳走になった上、お風呂に入りました。すると昨夜からの疲れが一気に噴き出し、思わずうとうとと眠ってしまいました。驚いて目を覚ますと、日もすっかり暮れかけていたので、さらに驚いて、後家や得念に「また二、三日中に改めて御礼に伺います」と丁重に挨拶をして立ち去りました。しかし、学寮へはもう時刻が遅すぎて帰りづらく、かといって当てもありません。
足の向くままに芝口へ出ると、堀端を伝って虎の門から溜池へと差し掛かりました。秋の日もとっぷりと暮れ、ただでさえ寂しい片側道です。人通りも途絶え、池一面の枯れ蓮に夕風がそよぐ音が、坂の上にある葵の滝の水音と混ざり合い、いっそう物寂しく耳に響きます。自分の行く末が急に心細くなり、土手際の石に腰をかけてただぼんやりと水面を眺めていたところ、突然後ろから肩を叩かれました。

「これ良乗殿。大方こんなことだと思っていたので、心配して後をつけてきたのだ」
そう言ったのは、先ほど木挽町の後家の家で別れた得念でした。得念は、私が身投げでもするのではないかと心配したなどと言い募った末、あたりを見回して急に言葉を変えました。「お前の懐にある大金は、大方山内の宝蔵から盗んだ金だろう。友達の誼(よしみ)に他言はしないから、半分山分けにしろ」と迫ってきました。
私は、先ほどお風呂で居眠りをした際に懐を見抜かれたのだと思い、昨夜の顛末を詳しく話して聞かせました。実は今からその屋敷を訪ねて金を返却したいのだと説明しましたが、得念は一向に聞き入れません。果ては押し問答の末、強引に力ずくで金を奪おうとしたので、掴み合いの喧嘩になりました。私は十五歳までは武術の稽古も一通りは積んでいたので、ついに得念を組み伏せました。得念はもはや敵わないと思ったのか、突然大声で「人殺しだ!」と叫び出したのです。「泥棒だ!」と叫び続けられたため、私もパニックになってしまい、力いっぱい得念の首を絞めました。するとそのままぐったりとしてしまい、どれだけ介抱しても息を吹き返す様子がありません。どうすることもできず、幸い闇夜で人通りがなかったことを天の助けと思い、得念の遺体を池の中へ蹴落としました。

そのまま何食わぬ顔でその場を去り、戸田様のお屋敷の前を通り過ぎて、麻布今井谷の湖雲寺門前まで出ました。当時はまだ明治の御改革前だったので、長垂坂の上の遊郭は大変賑わっており、木戸の前を通りかかると店の中に呼び込まれたので、そこで一夜を明かしました。

本当に、人生の浮き沈みというものは予測がつきません。偶然大金を拾ったばかりに、人殺しという大罪を犯す身となってしまった以上、今さらどれほど後悔しても取り返しのつかない事態です。今は自首して罰を受けるべきか、それとも運を天に任せて逃げられるところまで逃げ続けるか、その二つに一つしか道はありませんでした。今さら懐中の金を道に捨てたところで、人殺しの罪が免れるわけでもない。夜中、一睡もできずに思い悩んだ末、とにかく一度どこかへ姿を隠して様子をうかがい、それから覚悟を決めようと考えました。

翌朝、麻布の娼家を出て、渋谷村羽根沢という場所へ向かいました。そこには、かつて私の乳母だったお蔦という老婆が住んでいました。とても正直な農婦で、再婚した後も毎年、暑い時期や寒い時期には欠かさず屋敷へ見舞いに来てくれるような間柄でした。私が学寮に入った後も、有馬様の長屋の外の通りで偶然会ったことなどを思い出し、その日の昼下がり、その家を訪ねました。

お蔦の家は思ったよりも商売が手広く、生活も豊かそうでした。人里離れた一軒家で世を忍ぶには絶好の場所だと思い、私はお蔦夫婦にこう頼みました。「同じ学寮の僧と酒の席で口論になり、師匠にも迷惑をかけて追放同然の身になってしまった。一度国元へ帰りたいので、四、五日厄介になりたい」と嘘をつくと、快く承知してくれました。おかげでゆっくりと疲れを癒やすことができました。縞の着物や合羽なども買い揃えましたが、丸坊主の頭だけはどうにも隠せないので、俳諧師か医者のような身なりに化け、旅の支度を整えてお蔦夫婦に別れを告げました。教えられた道を辿り、その夜は川崎宿に泊まりました。

しかし、もともと国元へ帰るつもりなどありませんでした。東海道を小田原まで行き、城下町に数日滞在してから伊豆の湯治場を遊び回り、大山へ参詣しました。そこから甲州路へ出て、江戸に戻ろうとしていた途中、偶然道連れになったのが、この満行寺の先代住職である了善上人でした。

上人は殊の外私を可愛がってくださり、「ぜひ満行寺に立ち寄れ」と勧められたので、そのままお世話になることになりました。当寺は言うまでもなく西本願寺派丸円寺の分派で、僧侶が肉食や妻帯をすることを許されている宗門です。了善上人には奥様も先年亡くなっており、娘さんが一人いるだけで、跡を継ぐべき息子がいなかったため、ついに私を婿養子にしたいという話が出ました。しかし、その最中に上人は急病で亡くなられました。

もっとも、これは私がこの寺にお世話になってから三年後のことで、私は遺言に基づき、当山の八代目の住職となった次第です。

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