第一、私が読んだって面白くないんだもの……」
「おい、あまり人の前で本当のことを言うなよ!」
寛子は二階からぎくしゃくした茶膳台を持って降りてくると、濡れ布巾でごしごしと拭いて、茶碗を並べ始めました。
「もうご飯にするの?」
「ええ、この人が座ればすぐにご飯よ。どうせ歩き疲れて、お腹の皮が背中に張り付いているんだから……」
「無茶ばかり言うなよ。……あ、それで、さっきの話だけど、二、三日すれば目鼻がつくんだ。啓坊をひとつ、預かってくれないかな。決して迷惑はかけないし、明日にもなれば、少しは届けられるから……」
「うん、その話ねえ。姉妹で争うのは嫌だけど、お互いに家庭を持っているのよ? 初めてならまだしも、何度もだし、私たちだって近々ここを追い出されそうなのよ……」
「たった二、三日よ。二、三日したらお店を開くんだから、あなたにも手伝いに来てもらえるし……」
「ええ、だけど、今さら私が頬紅をつけて紅茶を運ぶなんてできないでしょうし、本当のことを言えば、姉さんの話は当てにならないんだから……」
「信用がないのねえ。……勘三さん、一つ啓坊を二、三日預かっていただけませんか? 一生のお願いなんだけど……」
勘三は、口紅の濃い姉の姿をさっきからじろじろと眺めていました。
心の中で、三十にもなって後家でいるのは本当に辛いのだろうと、変に同情してしまっています。
「まあ、姉さんがそれでうまくいくんなら、置いていきなさい」
そう言うより他ありませんでした。
眠っている礼子を背負って、姉の貞子が電車賃も借りずに帰っていくと、寛子は、わっと声を上げて泣き出しました。「あんなひとってありゃアしない! 自分の勝手の時ばかり子をあずけに来てッ、貴方がなめられているからじゃないのウ」
「何もなめられてやしないよ。
女房の姉さんじゃないか、どうしても駄目ですとはいいきれないよ」
「莫迦にされてンのよッ!」
「莫迦にされたっていいじゃないかッ、泣く奴があるか、莫迦ッ! 早く飯にしろッ」
勘三は懐から色々な原稿の束を出すと、一枚を引き破ってばりッと鼻をかんだ。
啓吉は小さくなってそれを見ていた。
伸一郎は遊びに行っているのかな、早く帰らないのかなと、じいっと坐ったまますすりたい鼻もようすすらないでいる。
四人も姉妹がいて、どれも命細々長らえている生活なのかと思うと、寛子は台所をしていても、はアと溜息が出た。
「ま、仕方がないよ、いまに俺だってこの状態じゃいないし、根気でゆくより仕様がないよ。
何しろ文士志望が五万人ってンだから、骨も折れるさ……」
「そんな呑気な事いってられないわよ。
伸ちゃんだって来年から学校だし、土方でも何でもして働いてくれた方がよっぽどうれしいわ。
本当に!」
勘三は大の字になった。
啓吉は益々固くなって、散らかっている煙草の銀紙をひろった。
「伸ちゃん! 御飯よウ、伸公ッ」
台所の硝子戸が開いて、癇高い声で、寛子が子供を呼んでいる。
六
雨がしょぼしょぼ降って薄暗い。
一足飛びに冬が来たような陽気だ。
「貴方あずかるといったのだから、貴方がこの子を始末して下さい」
それが喧嘩の原因で、勘三はまた原稿を懐にして、
「じゃア、お前の気に入るように、啓坊をお菅君の所へでも置いて来るよ」
と勘三は啓吉を連れて渋谷駅から省線に乗ったのであった。
坊主憎けりゃ袈裟までという言葉にうなずきながら、電車に揺られていても、勘三は何も彼も面白くなかった。
「おい啓坊! 中の叔母さんのとこへ行ってもおとなしくしてるンだぞ、ええ?」
「うん」
「啓坊の母さんがなってないから、まるで啓ちゃんが宿無し猫みたいじゃないか、うん?」
「…………」
「さて、叔父さんは雑誌社へ寄って、叔母さんの務め先に電話を掛けてやるから、叔父さんが出て来るまで、外で待ってるンだよ」
有楽町で降りて、銀座裏の雑誌社まで歩くと、啓吉のズックの運動靴は、水でびたびたして来た。
赤や緑の服を着た珍しい女達が通っている。
「大きな町だろう?」
「…………」
雑誌社の前へ来ると、勘三は啓吉に雨傘を高くかかげさして、身じまいをなおすと、一つの原稿を封筒へ入れて、
「じゃ傘さして待ってな、あっちこっち行くンじゃないよ、すぐ出て来るから……」
馬に乗ったような意気込みで、扉を開けて這入って行ったが、勘三がビルディングの中へ消えてしまうと、啓吉は寒さと心細さで、何度すすっても鼻水がこぼれた。
ここから、母親のそばまではもう帰れない程遠いのではないかと思った。
舗道の三和土へ当る雨が、弾ねあがって、啓吉の裾へ当って来る。
傘が大きいので、啓吉の姿が見えない程低く見えた。
街には昼間から灯がついていて、人力車が一台ゆるゆる走っていた。
ラジオが聴える。
がちゃがちゃした音楽だった。
「まだかな」
啓吉は悄気て大きな傘をブランブラン振った。
「おい啓坊!」
啓吉はほっとして傘を持ちあげてビルディングの玄関にいる勘三のそばへ傘を持って走った。
「ここも大入満員だ」
「どんな人がいるの?」
「叔父さんみたいな立派な人が沢山いるンだよ」
「…………」
啓吉が黙っているので、勘三も黙ったままぽつぽつ歩いた。
「さてどこへ行くか」勘三は不図立ち停まって、封筒から原稿を出すと、新しい原稿を出して、その封筒へ入れ替えた。
「今度は新聞社だ」
「新聞社?」
「ああ」
いよいよ啓吉の靴は重くなった。
裸の脚ががたがた震えた。
マークのはいった旗をつけた新聞社の自動車が、幾台も並んでいる所へ出た。
勘三はそこで物馴れた容子でのこのこ階段をあがって行った。
啓吉は草臥れてしまって、入口の石段に傘をすぼめて腰をかけた。
雨がにわかにひどくなった。
自動車の旗がべろんと濡れさがっている。
舗道は雨で叩きあげられて乳色に煙をあげていたが、新聞社の自動車が一台一台どっかへ滑って行くと、啓吉の目の前に小さい女のハンドバッグが陽に濡れて叩かれているのが見えた。
七
兎に角、二人はそっと濠端の方へ歩いて行った。
雨は益々ひどくなって、勘三の差しかけている蝙蝠傘が雨にザンザン叩かれている。
ペンキ塗りの空家になったガレージの前へ来ると、
「啓ちゃん! それ出して御覧よ」と、勘三が立ちどまった。
「誰も来てないかい?」
「うん、誰も来てないよ」
啓吉が蝙蝠傘を差しかけると、裾をたくしあげた勘三は啓吉の拾った青いハンドバッグを開いてみた。啓吉は背伸びをして、叔父さんの手元をのぞき込んでいました。
「中には何か入っているのかい?」
「待てよ……」
青いハンドバッグの中には、「沢崎澄子」という名前の名刺が二、三枚入っていました。汚れたパフがついた日本製のコンパクトが一つ、香りはとてもいい匂いがします。練り紅、櫛、そして薬のようなものも。さらには「ダンテ魔術団」のマッチ、男の名刺が四、五枚、紅がついたハンカチが一枚。茶色の革財布には五銭玉が二つ入っていました。その財布の裏側にはハトロン紙の封筒が挟まっていて、中には拾円札が一枚。封筒には「童話稿料」と書かれていました。
「へえ、これは叔父さんみたいな職業の人が落としたものだな……」
沢崎澄子という名前は、どこかで聞いたことがあるような気がします。
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