初級翻訳・海底大陸 第7話

海底大陸

こっちはクーパーだが、本船の操縦はうまくいっているかね」
「とうとうかぎつけたね。じつはいま船長とふたりで、知恵をしぼっているところだ。たいへんなことが起こったよ」
「たいへんは承知しているよ。そっちの連中も目が見えないんだろう」
「そうだ。ほとんど目の見えない連中ばかりだ」
「ほとんどというと――」と事務長はせきこんで聞き返した。「――誰か目の見えるのがいるかね」
「うむ、少し目の見えるやつがいる。そいつはぼくだ。ぼくひとりなんだ」
「ええッ、パイクソン、おまえだけ目が見えるのか。それは意外だ。どうしておまえだけ目が見えるのか」
「それはよくわからない。ただぼくは夕食中、急に気分が悪くなって、自室にひきとったんだ。そして急激な嘔吐に下痢だ。半死半生の体でベッドにもぐりこんでいたが、それから後、元気をとりかえして、いま船橋に立っているが、船中の目が見えない騒ぎのうちに、ぼくだけは少し見えるので意外に思っているわけさ」
 聞けば聞くほど不思議な話だった。その幸運な一等運転士も、やはり視力は衰えていた。それでも、夏の朝霧のなかに鳥が飛んでいるのが見えるほどには見えるらしいのは、まったくの拾いものだった。
「で、航路は――」
「その航路だが、要するにめちゃくちゃだ。前方がまったく見えない。昼夜時計によると、時刻は正に午前九時なんだが、さっぱり前方が見えない。どこを向いても、ただ真っ黄色な空間があるばかりだ。クーパー君、おどろいてはいけないよ。海面すら見えないのだ」
「ああ、海がどこかへ行ってしまったのだね」
「海がどこかへ行ってしまった? まあ、そうかも知れない。しかし船のスクリューには、ちゃんと手ごたえがあるんだよ。船は水のようなものの上に浮いていて、そのなかを、たしかにスクリューが回っているんだ。だから、本船はすくなくとも時速三十ノットで前進していきそうなものなんだが、メーターを調べてみると、じっと止まっているとしか考えられない。こんな変なことがあるだろうか」
 さすがの一等運転士も、心細いことを言い出した。これでは、目が見えても大した違いではなさそうだ。
「――で、本船の位置は?」
「全くわからない。止まっていることはわかるが、自記航路計がくるってしまって、どの地点にいるのだかわからないのだ。やがて夜にでもなって北斗星が出てくれば、六分儀でもって測定できるだろうがね」
「そいつは弱ったなァ」
「全く弱った。ぼくはなんだか夢の中にいるような気がする。しかもクイーン・メリー号ごと夢の国に持っていかれたような気が……」
 船橋にいる一等運転士パイクソンの声は、まるで地の底から聞こえてくるように、陰々たる響きをもっていた。

火におじる者

 クイーン・メリー号の事務長クーパーは、いまは死を待つばかりだと思った。そのうち機関長のシリンが言ったように本船が爆発するか、さもなければ一等運転士パイクソンの言ったように夢の国、じつは死の国に横づけになるかもしれないのだ。
「ああ、船乗り稼業もこのへんでおしまいだ」と、クーパー事務長は、見えぬ目をまたたいた。日ごろ豪胆をもって鳴っていたが、メリー号の全身不随となったのを知って、今は、すっかり絶望のふちに沈んでしまった彼だった。
「事務長、たばこをお持ちじゃありませんか」と、室のすみにうずくまっていたマルラが、とつぜん顔をあげて言った。
「なに、たばこだって? たばこならあったはずだ。そうだ、この騒ぎにたばこをのむことすら忘れていたねえ。マルラ、こっちへ来い。いっしょにのもう」
 マルラは事務長のやさしい言葉に応えて、犬の子のようにゴソゴソ這い寄っていった。
「さあ手を出して。ホラ、たばこを受け取ってくれ」
 ふたりは手さぐりで、紙巻たばこを一本ずつ取り出した。
「マッチは?」
「おお、マッチもあるぞ」
 クーパー事務長は、ポケットをさぐって、マッチを取り出した。そして、何の躊躇することなく、シュッと火をつけた。その瞬間だった。「ギャーッ!」
 と、とつぜん、怪しい悲鳴が聞こえました。
 奇妙な声でした。人間がそんな奇妙な声を出すのをはじめて聞いた、とクーパーは思いました。
 とたんに、あわてふためいたような足音がしました。それは、なにか大きな濡れた足をひきずるような、ペッチャ、ペッチャという音で、入口の方へ消えていきました。
 クーパーは、秘書のマルラが気がおかしくなったのだとばかり思っていました。
「かわいそうなマルラだ。甲板から飛びこまなきゃいいが……」
 とクーパーがつぶやくと、
「えっ、わたしがどうしたとおっしゃるのですか……」
 と、思いがけず、クーパー事務長の鼻の先からマルラの声が聞こえてきました。
「おやっ、マルラ! そこにいたのか」
「おやっ、事務長ですね。わたしはここにいますが、わたしはてっきり、あなたがかけ出したのだとばかり思っていました。今のはそうではなかったのですか?」
「もちろん、ぼくじゃない」
 とクーパーはぶっきらぼうに言って、
「きみでもない。ふたりのほかのだれかだ。しかも、あんな変な声を出すやつって、いったいだれだろう」
 その瞬間、どこからともなく、例のなまぐさい悪臭がプーンと漂ってきました。
 そのとき、テーブルの上に手をついていたクーパーが、びっくりするような大声で叫びました。
「おやっ、マルラ。テーブルの上をさわってみろ。なんだかベトベトしたものがたくさんついているんだ。におうのはこれだったんだ。わかったぞ。おい、気をつけていろ。なんだか奇妙な生き物が、そこらをうろうろしているらしいぞ」
 マルラはそれを聞くと、歯の根も合わず、ガタガタと震えだしました。

人間か怪物か

 事務長クーパーはマルラを励まして、さっそく手さぐりながら入口のドアを閉め、ガチャリとかぎをかけました。
 窓という窓をピシャンと閉めて、外界からの出入りができないようにしたのです。
「これでいい。当分こうして籠城したまま、後の対策を考えるんだ」
 クーパーは、どっかと回転椅子の上に腰をおろしました。
 目は見えなくても、心眼というものを開いて物事を見ようと考えました。さっき、たばこに火をつけようとしたとき、ギャッと奇声をあげ、ピチャピチャと足音をたてて逃げ出したのは何物だったのか。
 それから、テーブルの上に残った、ねばねばした悪臭のある粘液も、あの怪しい何者かに関係があるように思えます。
 いったい何者なのでしょう。人間か、それとも獣か?
 とにかく彼は、これまでに経験したことのないような不思議な難所にとじこめられていることを知りました。
 彼だけではありません。五千人に近い人間を乗せた巨船クイーン・メリー号ごと、そんな難所にとじこめられてしまったのです。
 いったい、ここはどこなのでしょう?
 そういうことを考えると、彼は急に頭が痛くなるのでした。
 なにしろ、クイーン・メリー号は海上を航海していたのです。それが今は、海のない地点に来ているのです。
 海はないはずなのにスクリューは回っているというから、船は何物かの上に浮かんでいるのでしょう。そんな場所が、海の――大西洋の続きにあるのでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました