ねえ法水君、そういった種類の女には、決して犯罪者はいないものだよ」
そう言って古いテーブルのところまで戻ってくると、彼は小声で法水に囁きました。
「だが一応は、アマリリスの花を調べてみる必要があると思う。朝枝(あさえだ)の言うことが本当なら、アマリリスをウルリーケが持ち込んだのと同時に殺人が起きたと言えるだろう。それまで十何日も固く閉じていた蕾が、その瞬間にパッと開いてしまったのだ……」
海霧が扉の隙間からモクモクと入り込み、二人の周囲を煙のように漂い始めました。しかし、それを聞くと法水は突然座り直し、すると頭上の霧が漏斗のように渦巻いていきました。彼は手にした「ニーベルンゲンの歌」の詩集を弄びながら、こう言ったのです。
「冗談じゃないよ。この事件に、心理分析だの検証だのといった理屈が通用すると思うか。これは、あのトリエステで始まった壮大な伝説の琴線に触れることなんだ」「ところで、さっきこの本を見たときに、ふと思いついたことがあるんだ。君は、シャバネーという人が『運命を先回りするもの』と呼んだ、『思い込みの心理』を知っているかい?
例えば、自分の今の状況が、小説や劇に出てくる登場人物にそっくりだと気づいたとしよう。
そのちょっとした気づきから、あっという間に強い思い込みが生まれて、その人は何が何でも物語の最後のページを開いて、結末を確かめようとしてしまうんだよ。
現に、まるで自分の劇を見せびらかしたいかのような、そんなおかしな心理が、あの血なまぐさい事件にも現れているじゃないか。
だけど支倉(はせくら)君、もしもその心理を前提にして考えてみるとだね……」
検事はにっこりと微笑んで、法水(のりみず)に最後まで言わせませんでした。
「なるほど、わかったぞ。
それで君は、クリームヒルトのことを言いたいんだろう?
あの物語のヒロインの個性は、この暗い復讐(ふくしゅう)の劇の中でも、一番激しくて強烈だからね。
悪いやつに殺されてしまった夫ジーグフリードの面影を胸に抱きしめたまま、クリームヒルトはハンガリーの王様のもとへお嫁に行くんだ。
そして、十七年もたってから復讐を果たすわけだけど、それって、艇長のことを一瞬たりとも忘れられないまま、八住(やすみ)の奥さんになったウルリーケの姿にそっくりじゃないか。
あの気高くて、すべてを包み込んでしまおうとする愛――それに、彼女のあの青白い顔はどうだろう。
あれはまるで、人間を超えた不思議なものの色だよ。
ウルリーケの体に血が通っていないなんてことはないだろうけれど、もしも青白い光の前に立たせたら、彼女は形のない幽霊みたいに透き通ってしまうんじゃないかな。
だけど、法律は法律だし、犯行の理由は理由だ……」
と、検事はテーブルを叩きそうな勢いで言いましたが、そのとき、ふっと体がすくむような影が差しました。
というのも、この静まりかえった空気の中で、左側にある部屋――そこはドアも窓もカギがかけられていて、誰もいるはずのない部屋なのですが、その方向から、なんだか寂しそうに「コトリ、コトリ」と、寒々しい音が響いてきたからです。
けれど、頭を冷やしてよく考えてみれば、そこには心を怖がらせるような怪しいものは何もないはずです。そのため、検事はすぐに元の落ち着いた表情に戻って、話を続けました。
「ねえ法水君、残念ながら、あの潜航艇『鷹の城』が遭難した本当の理由はわかっていないんだ。
もし、あの夜、海の底で八住が艇長を殺して、その手がかりが日誌の中に書かれていたとしたら……どうだろう。
何といっても、八住は目が見えないんだ。そして、その秘密を知っていて、十七年もの間、復讐のチャンスを狙っていた人物といえば、まずはウルリーケを置いて他に誰がいるだろう。
あの日誌のページを破り取ったのは、絶対にウルリーケだと思うよ。
ああ、十七年後か……」
と、ここで検事は思いがけず、古い伝説『ニーベルンゲンの歌』とこの事件を結びつける、二つ目の不思議な一致に気がつきました――それは「十七年後」という年月です。
すると、検事はハッと夢から覚めたようになり、それまで法水のロマンチックな空想にすっかり乗せられていた自分のおかしさに気づいたのでした。
法水も、その驚きを隠しきることはできませんでしたが、検事の言葉など聞こえなかったかのように、さっきの自分の言葉の続きをそのまま繰り返しました。
「ところがね、その思い込みの心理を前提として……、艇長がジーグフリードで、ウルリーケがクリームヒルトだという、その『ぴったり一致すること』に頭を乗っ取られてしまうのが問題なんだ。
一番大切な、ニーベルンゲン伝説に出てくる秘密のアイテム『隠れマント』が、そんな思い込みの壁に邪魔されて、見えなくなってしまうんだよ。
ねえ支倉君、この事件における『ニーベルンゲンの歌』の意味は、決して後半のハンガリー王国の場面にはないんだよ。むしろ前半の、それも『氷の島』の場面にあるんだ。
つまり、主人公のジーグフリードが姿を消すために使う、魔法の『隠れマント』が、いつ、どこで使われたか……ということさ。
それに、その『氷の島』というのが、この事件ではどこにあたるのか、ということなんだ。
繰り返して言うけれど、ウルリーケは絶対に優しくて悲しいクリームヒルトなんかじゃない。氷の島の女王、ブルンヒルトなんだ。
しかも、この事件におけるブルンヒルトは、まるで悪い魔女のようにずる賢くて、恐ろしい『スペードの女王』なんだよ」
「ブルンヒルトだって……?」
と検事は思わず聞き返しました。しかし、自分の意見を否定されたにもかかわらず、なぜ法水がウルリーケをそんなに悪い人間だと決めつけるのか、その理由がさっぱりわかりませんでした。
法水は、タバコの煙をぷはーっと吐き出して続けました。
「というのもね、クリームヒルトなら、ただの人間の女性にすぎない。
けれど、ブルンヒルトとなると、その運命はもっと暗くて、逃れられないものなんだ。彼女の周りにあるものは、みんな狂ったような、魔法や不思議な力の世界ばかりなんだよ。
最初は、燃え盛る炎のとりでを消して現れたジーグフリードを見て、そのたくましさに、心の中でこっそり胸をときめかせたんだ。
ところが、そのジーグフリードは、魔法の『隠れマント』で姿を消して、グンテル王という別の男の身代わりになって彼女をだましたんだ。
支倉君、君は、この例え話が何を意味しているか、わかるかい?」
「隠れマント……」
と、その言葉の鋭い響きに、検事は思わず引き込まれてしまいました。
「ということは、その例えからすると、君はあの『ウィーンの鉄仮面』のことを言っているのかい?
それとも、一方ではシュテッヘや艇長、そして今回の事件といった、あの『鷹の城』の怪奇な謎にもつながっているのかな……。ああ、なるほど! 確かにブルンヒルトは、グンテル王の身代わりになった男にだまされたんだ。
とすると、その『隠れマント』というのは、まさに、あの日誌のことなんじゃないか?
八住は、日誌という隠れマントの陰に隠れて、ウルリーケを呼び寄せたんだ……!」しかも、重要なページを破り捨てて、彼女がやり直そうとする望みをへし折ってしまった。
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