初級翻訳・潜航艇「鷹の城」 第19話

小栗 虫太郎

あなたは、シュテッヘの顔をご存じなのですか? 実は一枚だけ、あの方の写真があるのですけれど、まだあなたにはお見せしていませんわよね」

「ところが奥さん、トリエステで見せたあの素早い変装のトリックさえも見破る私の目には、そんな写真は最初から必要ないのですよ。たしかシュテッヘは、黒い髪で、細い口ひげと、三角形のあごひげを生やしていましたね。そして、顔のパーツや輪郭は、艇長とほとんど同じだったのではないですか?」

「ああ、どうしてそれを……!」
ウルリーケは一瞬でうろたえてしまい、その胸は、皮のゆるんだ太鼓のように激しくドキドキと波打ち始めました。
「でも、あのテオバルトが、どうしてシュテッヘだというのですか。あなたは私を、夫を裏切った不届き者に仕立て上げるつもりですか。そんな恥ずかしい思いをするくらいなら、私、この場で死んでしまったほうがマシですわ……!」

「それなら、なぜあなたは、艇長の写真を、壁にあいた小さな穴をふさぐようにして掛けておいたのですか? 私はあの小さな穴一つから、あなたの心の一番奥にある秘密の部屋をのぞき見させてもらいましたよ」
法水は、新しいタバコに火をつけながら、冷たく問い詰めました。

「さっきお部屋を拝見したとき、あの写真が『湿板写真』――つまり、日本でいう明治の初めごろに流行した『ガラス写真』であることに気づきました。ご存じのように、ガラス写真というのは、後ろに黒い紙や板を置くことで、初めて普通の写真に見えるのです。しかし、もし後ろから日光やランプの光を当てると、今度は白黒が逆転した影絵のようになってしまいます。その光のイタズラによって……フォン・エッセン艇長のきれいな金髪は真っ黒な髪に変わり、唇の上やあごの先は、そのまま黒い口ひげやあごひげに見えるようになります。こうして、フォン・エッセンとシュテッヘの顔は、光が透き通るほんの一瞬の間に、そっくり入れ替わってしまうのですよ」だから、心がつらくて落ち込んだときに、写真の後ろの板をそっと引くと、そこにはシュテッヘの顔が明るく浮かび上がってくるのでしょう。
それを見たあなたは、ちょっぴり困ったように微笑みながらも、すぐにその秘密のドキドキ感に胸を躍らせて、恋が始まったときの甘酸っぱい気持ちを、心ゆくまで思い出すはずです。
ですから、いくらシュテッヘの写真を焼き捨てたところで、僕の目をごまかすことなんて、これっぽっちもできないのですよ」
「なに、シュテッヘの写真を焼き捨てただって……? 私は最初から君のそばを離れずにずっと一緒にいたはずだが……」
今度は検事が、不思議そうに口を挟みました。すると法水は、楽しそうにニヤリと笑ってこう答えました。
「だって、どう考えても、糸車がひとりでにクルクルと回りだすなんて、おかしな話でしょう?
それに、詳しい理由は後でお話ししますが、艇長はある不思議な迷信を信じていて、自分が『鷹の城』からこっそり抜け出す時間を決めているのです。
あの糸車が突然回りだしたときは、君も僕も飛び上がるほど驚きましたが、すぐに僕は、自分の勘違いがおかしくて笑いたくなってしまいましたよ。
そもそも暖炉というものは、使わない季節には、下の火を燃やす場所と煙突の間を、仕切り板でふさいでおくものなのです。
ところが、写真を焼き捨てた犯人は、煙が部屋の中に充満してバレてしまうのを恐れたのでしょう。
だからわざわざ仕切りを開けて、煙を煙突から外へ逃がしたのです。
そのせいで、冷たい霧が煙突の上を通り過ぎるたびに、暖炉のなかの温かい空気との間で、空気の渦がぐるぐると巻き起こることになります。
そして、その風がすきま風となって、パタパタと閉まった扉のすき間から糸車にビューッと吹きつけ、糸車を回していたのですよ」
そう言って、法水はとなりの部屋へ入っていきました。そして戻ってきたとき、その手には燃え残った写真の台紙のくずが握られていました。
それでも法水は攻撃の手を緩めず、さらにウルリーケをじっと見つめて言葉を続けました。
「もちろん、これだけでシュテッヘとあなたの怪しい関係が完全に証明されたわけではありません。
しかし、『鷹の城』がトリエステの港を出発した日の朝、あなたは『ニーベルンゲンの歌』という古い詩の本に線を引いて、『葉っぱ』と『小さな十字』という二つの言葉を指し示しましたね。
そのとき、艇長はどうして急に暗く沈んだ気持ちになってしまったのでしょうか。
あなたが周りの目を気にしながら、こっそりと教えてあげた英雄ジーグフリードの弱点……。それは一体なんだったのでしょう? 『背中の衣の上に十字の印が縫い付けられていて、その真下の肌には、ちょうど木の葉の形をした、たった一つの命取りになる弱点がある』という話でしたね。
ところが奥さん、あなたはそれを使って、艇長が所属していたヨットクラブ――『王立カリンティアン・クラブ』の三角旗のことをほのめかしたのですよ。
あの木の葉の形と三角の旗、そして縫い付けられた十字と点だけで描かれた十字マーク。これほどぴったり重なるデザインを、ただの偶然だとは言わせませんよ。
もしもそのとき目の前にいた艇長が、本当に本物のフォン・エッセンだったとしたら、自分のヨットクラブのマークを言われたくらいで、そこまで暗く落ち込む必要なんてないはずです。
これこそが、あなたの心に隠された真っ黒な秘密――許されない秘密の恋が引き起こした、恐ろしい犯罪の証拠だったのです!」
法水が、さっき検事がバカにしていたスポーツ百科全書の『ヨット操縦法』の本を取り出すと、そこには驚くほどぴったりなイラストが載っており、もはや言い逃れのできない事実が目の前に突きつけられました。
検事はここで初めて、『身代わりの仮面をかぶせられたジーグフリード』という言葉の本当の意味を理解しました。と同時に、目の前にいるウルリーケが、心の秘密のベールを一枚、また一枚とはぎ取られ、丸裸にされていくような強い衝撃を受けました。
彼女の美しいドレスの奥には、かつて男たちを惑わせた恐ろしい魅力がまだ漂っているようでしたが、今やその化けの皮はすっかり剥がされ、何の言い訳もできないまま、男たちの前でその醜い本性をむき出しにされてしまったのです。
法水は、まるで逃げ場を失ってガタガタと震えている動物のように、すっかり打ちのめされたウルリーケを冷たく見下ろしながら、トリエステで起きた過去の出来事と、今日の事件とを見事につなぎ合わせてみせました。
「ところが奥さん、あなたも後になって気づいた通り、完全に死んだと思われていた本物の艇長は、実はその後も、信じられないような方法でずっと生き延びていたのです。
そして、『鷹の城』がこの岬の角にやってくると同時に、毎晩のようにこっそり陸へ上がり、あの防波堤のあたりをウロウロとさまよい歩くようになったのです。
いいですか奥さん、艇長はそこの地面に、一晩に一文字ずつ、自分に毒を盛った犯人の名前を書き残していったのですよ」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の中にぞっとするような本物の恐怖が再びしんしんと冷たく広がっていきました。しかし、法水がポケットから取り出した紙に書かれていたのは、ただの奇妙なマークの羅列にすぎませんでした。

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