初級翻訳・猿飛佐助 第2話

猿飛佐助

動くはずのないヒノキの木が自由自在に動くなんて、どう考えてもふ普通の木じゃないぞ。化け狐か、タヌキか、それとも森の妖怪の仕業か」
 そう呟いた途端、カラカラと威勢のいい高笑いが聞こえてきましたが、肝心の姿は見えません。
「おい、誰だ? 笑っているのは!」
「あはは……」
「ぬぬッ! またしても笑ったな! 俺のアバタ面がおかしいって言うのか!」
「あはは……」
「無礼なやつめ! 姿も見せないで笑うとは、いい気なものだな! さては鳥居峠の天狗というのはお前のことだな。暗闇に隠れて俺のことをからかう、その生意気な鼻がどうにも気にくわん。その鼻を今すぐへし折って、少しは人並みの低さにしてくれる!
おい、どこだ! 空にいるなら降りてこい! 二度と再び空を飛べないように、その季節外れの扇子をお前が目から出す怒りの炎で焼き捨ててくれる。どぶ酒にでも酔っぱらったようなお前の顔の色を、奈良漬けの匂いすら嗅げないような、青白い若草色に変えて蒼ざめさせてやる!」

いつものように調子のいい冗談をとばしながら、佐助がぐっと睨みつけると、不思議なことに、今まで相手をしていたヒノキの木がすっと消え失せ、その目の前には一枚の薄汚れた老人がちょこんと座っていましたまるで土蜘蛛のように手足はカサカサに痩せさらばえ、腰は二重に曲がり、コンコンと咳をしたりタンを吐いたり、鼻水をすすり上げたり、ヨダレをたらしたりしています。「老いぼれの醜い姿」とはまさにこのことで、せっかくの気合もすっかり冷めてしまいましたが、どう見てもただの人間ではありません。
「神様か、仙人か、それとも妖怪か!」
 佐助がまずそう尋ねたところ、
「どれでもないわい」
 と答えたその声はやけにキンキンと若々しく、かえってなんだか気味が悪いほどでした。
「じゃあ、人間なのか?」
「人間であって、人間ではない。人間というちっぽけな存在を超えた者なのだ! 天よ聞け、地よ聞け! 人間とはいつの日か乗り越えられるべき存在なのだ!」
 老人は急に学校の先生のような偉そうな口調になって天を指さしましたが、洞窟の天井からはホコリ一つ落ちてきませんでした。それでもさらに気合を入れ直すと、今度はコソコソと落ち着かない様子で、目尻から垂れてくる目やにを拭いながら、こう語り始めたのです。

「――わしは、憐れで醜い人間どもの、下品で俗っぽい顔でわしの涼しい瞳を汚されるのが嫌でな。それに、うるさい人間どもの下劣な悪声で、わしの汚れなき耳を汚されるのもおそろしくて、高い山の峰から峰へと空を飛ぶ、戸沢図書虎(とざわずしょとら)、またの名を白雲斎(はくうんさい)という超人(鳥人)なのだ!
まあ、いろいろと思うところがあって、今宵新手村の上空を飛んでいたところ、たまたまこの山の中でそなたの姿を見かけたのじゃ。そこで、忍術の極意を使って木遁の術(木に化ける術)を使ってみたが、さっきからのそな動きっぷりはなかなかに見事なものじゃった。
しかしじゃ、鹿すら通わないようなこんな山奥に、若い身空の若者が隠れ住んでいるとはいぶかしい。まず聞こう、普段は何を食べて生きているのじゃ?」
 老人にそう尋ねられた佐助は、思い切り度肝を抜いてやろうと思い、「毒蛇のまむしを食べている」と答えました。
「日の光の下で、最も賢く、そして恐ろしい毒蛇を食らうとは、近頃めったにお目にかかれぬ珍しいやつじゃ。とくにまむしの頭の肉は、ものすごい猛毒を含んではおるが、熊の掌(手のひら)やラクダの足の裏にも勝るとも劣らない、天下の珍味じゃからな!」
 そう言って老人は、早くもだらしなくヨダレをたらしました。それを見た佐助は、この醜い老人が蛇の頭をかじりついている光景を想像すると、まるで冬の宿で妖怪のろくろ首が油漬けのムカデをバリバリと食べているような面白味があるなと考え、
「それじゃあ、まずこれをどうぞ」
 と、さっそく老人に洞窟の中を案内し、食べ残してあったまむしの頭を五つ、毒消しのために大蛇の血を塗って差し出しました。
「おお、これはなんと素晴らしい珍味じゃ!」
老人はそれをペロペロとなめながら食べ、おまけに大きなおならをプーとこき、あろうことかその場で小便をもらすという、なんとも行儀の悪い喜び方をしたのでした。

そして老人は、佐助の名字が「鷲塚」だと聞くと、
「日の光の下で、もっとも空高く気高く舞う鷲の字を名字にするとは、近頃実に頼もしいやつじゃ」
お世辞をひとしきり言ったあと、佐助との間で次のような問答を始めました。

「お前は、『朝に猿と遊ぶ』と言っておるが、その理由は何かな?」
「それはですね、世間では『友を選ぶなら悪人は避け、おべんとうを言うような人間とはつきあうな』ということを人生の金言としていますがね。たとえ一番悪い猿であっても、人間の善人よりは悪事を働くことがはるかに少ないですし、何より猿はお世辞を言うことを知りません。
それに比べて、猿に似て非なる『猿面冠者(顔だけ人間で中身が猿のようなやつ)』たちは、自分の出世のために、主人から『猿、猿』と見下されても、『はいはい』としっぽを振っておべんとう笑いを浮かべたりします。そんな連中は、自分が恥ずかしい人間だということすら気づいていない者たちです。
ですが、猿のあの赤い両頬をごらんなさい。あれは人間とは違って、恥ずかしさのあまり本当の恥じらいの花火をパッと揚げているからこその赤さなのです。だからこそ、私は毎朝猿を友としているのです」

「では、『昼に本を読む』というのはどういうわけだ?」
「はい、本を読むからといって、読んだ者が必ず頭のいい人間になるとは限りませんが、しかし本を読まない者は必ずバカになってしまうからです」

「では、『夕方に武道の稽古をする』その理由は何かな?」
「はい、今の世の中は麻の糸がめちゃくちゃに絡まったように乱れており、武術の基本すら知らないということは、世の中のことが何もわかっていないのと同じだからです」武芸者気取りで力自慢をし、「武道をやっていなければ人間ではない」と言い張るような今の世の中、武術を知らないとどうしても心が卑屈になってしまうものです」
「山の中に世間から離れるための穴を見つけて、こうして隠れ住んでいるわけは――」
「この俺は、信州では誰もが知るアバタ面……つまり、普通の凡人たちとはちょっと違った顔立ちをしているがゆえに、下品な俗人たちの目に触れるのを避けたかったからなのさ」

 問答が一段落すると、老人は「お前のその殊勝な返答、気に入ったぞ!」とばかりに急にそわそわと立ち上がり、おならをブーブーと鳴らしながら洞窟の中を歩き回り、怪しげな節回しをつけて、
「――ただ人は情けあれ、夢の夢の夢の、昨日は今日のいにしえ、今日はあすの昔……」
 と歌い出しました。それを聞いた佐助も、こういう風流な掛け合いを見せるのは今だと言わばかりに、
「……昨日は今日の初昔……」
 と歌で受け返します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました