いっそその風を飲み込んで、そのまま逃げてやろうかと思ったんだけど、どっこい、飲み込んだ風が大暴れする無類の暴れん坊でね。この全身を駆けめぐり、あちこち破って外へ飛び出そうとしたもんだから、ひどい咳が出るわ熱は出るわで、本当にひどい目に遭ったよ。
はっはっは……」
と、佐助がカラカラと笑うと、入道は人の良さそうな目をパチパチさせながら、あきれたように言いました。
「相変わらず、寝込んでもペラペラとよくしゃべる野郎だ。
でも、それくらい元気があるなら、もう大丈夫だな」
そう言うと、入道は急に真面目な声に切り替えて、
「――ところでさ、変なことを聞くようだけど、お前は忍術のほかには、何かできることはないのか?」
「風邪をひくことならできるけど。
見てのとおりさ」
佐助がすまし顔で答えると、入道は慌てて大きく手を振って、
ええと、例えばだな、歌を読んだり、作ったり、そういうことはできるのか?」
「いや、そんなふうに冗談にしてごまかされると困るんだよ。
と、佐助は急に布団の上であぐらをかいて座り込み、
「なんだって? もう一回言ってみろ。
自分に歌なんて作れないのかだと? いったいどういうつもりだ。
人生のありとあらゆること――なんて大きく出るまでもないけれど、大体において人間がやるべきことで、不正、不義、傲慢のこの三つを除いたすべてのことの中で、この佐助にできないことが、耳かきですくうくらいのわずかな隙間でもあれば、今すぐ言ってみろ!」
「まあまあ、そんなに怒るなよ。
で、結局できるのかい?」
「おそれながら言わせてもらうがね、猿飛佐助が十八歳の大晦日から二十四歳の秋まで、鳥居峠にこもっていたおよそ六年の間、『万葉集』はもちろんのこと、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三代集に、『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』の五つを加えて世間で言う『八代集』をはじめ、源実朝卿の『金槐集』、西行法師の『山家集』、さらには吉野朝三代の『新葉集』に至るまで、歌に関する本で、自分の手でページをめくらなかったものは一つもないぞ!
それだけでなく、『徒然草』のようにつれづれなるままに、あるときは読んで、あるときは自分で作ってみた歌の数は、ざっと数えてこの顔のアバタの数ほどもあるんだからな!」
「わかった、わかったよ。
どうりで普段のお前のしゃべり方が、そこらの普通の人となんか違うと思っていたんだ。
それじゃあ、歌が作れるならちょうどいい、じつはすごく好都合な話があるんだ。
というのも他でもない、今夜このお城の中で、奥方の歌の会が開かれることになっていてね。ただ、今夜の会にはどうも俺の気に入らないふざけた企みがあるんだよ」
「ほう? 下手くそな歌を作った罰として、この三好清海入道に裸踊りでもさせようっていう企みかい?
そいつは面白そうだな」
「バカを言うなよ。
実は、一番いい歌を作った女の人を、一番いい歌を作った男の人に褒美としてくれてやろうっていう趣向なんだ。
ところが、女の人の中で一番歌が上手なのは、奥方につかえている侍女の、楓(かえで)という女なんだよ」
「楓……? どこかで聞いたような名前だな」
ふと、甘い思い出が佐助の胸をそっと揺さぶりました。
しかし、入道はそんな佐助の気持ちにはまったく気づかず、こう続けました。
「それでだな、男の方で歌が上手なやつといえば、家老の息子である伊勢崎五六三郎(いせざきごろさぶろう)なんだよ」
「とすると、なんだな。
その五六三郎ってやつが、その楓とかいう女の人をもらいそうになってるわけだな。
それがどうして、お前の気に入らないんだ?
もしかして、お前もその楓って女に惚れてるのか?」
「とんでもないことを口走るな!
俺が毛虫の次に嫌いなのは、女という生き物だ。
つまり、今夜の歌の会が俺の気に食わない理由は、ざっと数えて三つあるんだ。
一つ目は、その五六三郎という野郎がどうにも虫が好かんということだ」
「向こうだって、お前のことを好きだなんて言ってないだろうけどな」
「そうそう、そのとおりだ」
と、三好入道は佐助にからかわれていることにも気づかないほど、相変わらずのんびりとした鈍感な男でした。
「――この五六三郎という野郎は、家老の家に生まれたことをいいことに、いばりくすばっているのはまあ我慢できるとしても、のっぺりとした面白みのない顔をしてやがるくせに、頭のてっぺんから夏みかんを引っひねりつぶしたような、耳障りな声を発しやがるんだ」俺は虫唾(むしず)が走るんだ。
第二の理由は、こいつが以前から楓に横恋慕(よこれんぼ)していて、奥方を通して内々(うちうち)に結婚を申し入れたものの、楓にピシャリとはねつけられたものだから、奥方に知恵をつけて、歌の会の趣向なんかを企みやがって、無理やり楓を嫁に迎えようっていうその魂胆(こんたん)が気に入らないのさ。
第三の理由というのは……」
「自分が一番いい歌を作ってみせるって、はなから決めつけているその鼻っ柱が気に入らない、って言いたいんだろ」
と、佐助がすかさず言うと、
「そうだ!
その通りだよ。
だから頼む、貴公、病気がすっかり治ったお祝いだと思って、今夜の歌の会に出て、五六三郎の鼻をあかしてやってくれよ!」
「俺は断るよ。
そんなところに出たら、とんでもない珍妙な歌でも作ってやるさ」
佐助がそう突っぱねると、三好は坊主頭をポリポリとかきながら、
「いやさ、俺は笛や法螺(ほら)貝なら人一倍うまく吹けるんだけど、歌となると、まったくダメなんだよ。
いや、これは法螺(嘘)じゃない。
本当のことを、恥をしのんで言ってるんだ。
頼むから、貴公に出てくれよ!」
「いやだね」
と、佐助は吐き捨てるように言った。
「――よく考えてもみろよ。
歌を作るのは簡単だけどさ、そのおかげで見ず知らずの女の人を妻として押しつけられるなんて、真っ平ごめんだね。
俺の幼なじみにも楓という美女がいたが、同じ楓という名前でも、世の中には上から下までいろんな女がいるもんだろ」
そう言って断ったものの、三好は一度言い出したらあとに引かない頑固な男で、しまいには、
「どうしても出てくれなければ、今日限り口をきかないからな!」
と言い張るものだから、さすがの佐助も、言うことを聞くよりほかに仕方がなかった。
そして夜になり、佐助はアバタ面に裃(かみしも)をつけて、歌の会に臨んだ。
ところが、たまたま自分のすぐ前へ、静かに腰を下ろした侍女の顔を見て、佐助はハッと顔色を変えた。
それは、あの悪口祭の夜に別れて以来の、ほかならぬ楓だったのだ。
「あっ、この人が楓だったのか……!」
いつの間にこのお城に召し抱えられたのだろうか――そんなことを考える暇もなく、佐助はとっさに極意の忍術を使って、シュッと天井裏へと姿を消してしまった。
しかし、楓はいち早くその気配に気づき、
「あっ、佐助様……!」
と思わず立ち上がろうとしたその瞬間、はや佐助の気取った声が、天井の上から聞こえてきた。
「楓殿。
立つな、叫ぶな、探すな、そこに座れ。
お城の中なのだぞ、あまりに見苦しい。
いや、一番見苦しいのは、この私の顔か。
初級翻訳・猿飛佐助 第5話
猿飛佐助
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