初級翻訳・石を積む 第2話

別所 梅之助

しかし太公望は、「一度こぼれた水は二度と盆(お盆)には戻らない」というたとえ(覆水盆に返らず)を示して、その願いをきっぱりと断りました。それを恥ずかしく思った女は、そのまま亡くなってしまったそうです。
そして彼女は恐ろしい鬼神(きじん)になってしまったのだとか。

人々がそこにツバを吐いたり、石を投げたりするのは、そうやって彼女の罪を軽くしてやろうとするためで、もしそれをしなければ恐ろしい祟(たた)りがあるからだといわれています。

この城隍神(じょうこうしん)というのは、女の人たちが熱心に信仰する神であり、男女の恋をかなえてくれたり、子どもを授けてくれたりする神だそうです。

そう考えていくと、「太公望の奥さん」にまつわる話を除けば、あとは日本の村の境目や峠にまつられている神さまとまったく同じ姿だといえます。

そうした場所では、「生」と「死」が行き交っています。
あとの時代の旅人は、昔の時代の旅人が歩いた足跡をしみじみと偲(しの)びながら、自分自身の幸せを心から祈るのです。
これは、私たちが大切なお墓に向かって、一人ひとりが土をそっとかけていくという習慣とも、どこか深いところで繋がっているのかもしれません。

(このテーマについては、いつか『聖書民俗考(せいしょみんぞくこう)』という本でもうすこし詳しく書いてみたいと思います。)

水俣の人たちが礼儀正しく真面目であることは、本当になんとも喜ばしいことです。
しかし、大きな石の上に小石が積まれているのを見て、「それは旅人への思いやりの美徳だ」とだけ解釈してしまうのは、実際の村の人たちの本当の心からは、少し離れてしまっているのではないでしょうか?

蘇峰先生が自分の故郷のことについて書いている内容に対して、「よそ者の自分たちが思っていることとはちょっと違う」などと指摘するのは、少し出しゃばりですぎるかもしれません。

しかし、本をよく読む学者や物知りというのは、どうも「自分が何でもわかっている」という自信に負けてしまいがちなところがあります。
私なども、「自分はすべてを分かっているんだ」というつもりで、物を言ったり、文章を書いたりしてしまいます。
そして、時々とんでもない大間違いをやらかしてしまうのです。さらに田舎の人は、本をよく読む学者さんから質問をされると、その質問の雰囲気に巻き込まれてしまうのか、質問した人が思っている通りの返事をしてしまうことがあります。
その結果、本当の本当の理由は隠されたままになってしまうのです。
私たちが考えているよりも、世界はずっと広くて奥が深いものです。
石を神様に捧げるような信仰の心がどれほど深いものかは置いておくとしても(たとえば旧約聖書の『創世記』第28章18節、19節にもそのような古い記述があります)、そうした宗教的な心は、私たちの心の奥底に広く行き渡っています。
ただ、自分ではそれに気づいていないだけなのです。
日常生活の中で、ふと「あれっ?」と不思議に思うことがあっても、私たちはそれを別の当たり前のこととして片付けてしまいがちです。
しかし、お祝いのときやお葬式のときを除けば、普段は宗教なんて関係ないさと思っているような人でも、ふと心の底からハッとさせられる瞬間があるはずです。
そんな一瞬の心の動きを大切にするか、それとも無視してしまうかで、その人がこれから歩んでいく人生の色合いはすっかり変わってしまいます。
どうせ人間というものは、自分の好きな考え方に偏ってしまうものかもしれません。
それでも、宗教的な心というのは、人の心の深いところを静かに流れ続ける「地下水」のようなものです。
それを完全にせき止めてしまうことなどできません。
だからこそ、私たちの心の奥からこんこんと湧き出てくるその「泉」の存在を、私たちはきちんと認めてあげたいのです。
本当の道を求めようとする人は、毎日の普通の暮らしの中にこそ、偽りのない真実を見出そうとするものなのです。

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