初級翻訳・虹のこ 第1話

澤西 祐典

淹れたてのほうじ茶をひと口飲んで、真由美(まゆみ)はなんとなくリビングの窓の外に目を向けました。
大きな窓からは、琵琶湖(びわこ)の景色がずーっと先まで見わたせます。
「あっ、来るぞ」
窓ガラスについた水滴の向こうに見える湖の色を見て、真由美はそうピンときました。
朝からずっと小雨が降っていました。
天気予報では、午後もどんより曇ったままだということでした。
でも、お空は天気予報の言うことを聞いてくれなくて、雲の薄いところからパーッと太陽の光がのぞいてきました。
それになにより、湖の水がとっても澄んでいて、ほんのりキラキラと光っていたのです。
真由美はあわててカーキ色のレインコートを羽織り、その上からライフジャケットをカチッと装着すると、玄関のわきに置いてあった木の箱を抱えて、お家の裏手にある船着き場へと急ぎました。
昔は自分で手で漕ぐボートに乗っていたのですが、ここ数年はモーターボートを使っています。
雨よけのシートをパッと外して、使い慣れた手つきでエンジンをブルンとかけました。
トントンと元気な音を立てて舟が岸から離れていくと、ちょうどそのとき、大きな湖の上にきれいな虹がかかったのです。

「虹が出たら、その根っこに向かっていくんだよ」
滋賀県の中学生たちがみんなで集まって、琵琶湖の上で一泊二日の宿泊学習をする「うみのこ」という体験のとき、真由美はその先生からそう教わりました。
「とっても大切なことだから、絶対に覚えておくようにね」と、すごく念を押されたのです。
でも、今になって考えてみると、先生はヘンなうわさがまわりに広がりすぎないように、みんなが遊び疲れてウトウトしている時間を見計らって、こっそりそのお話をしたとしか思えませんでした。
合宿からお家に帰ったあと、クラスメイトの誰もそんなこと覚えていなかったからです。

「虹の根もとに、秘密の蚤の市(のみのいち)があるんだよ」
子供だった真由美は、お友達の手前もあったので、心の奥のすみにその秘密をしまいこみました。
だけど、大人になってから湖の近くにお家を買って、ボートの上でひさしぶりに虹を見つけたとき、思わずそっちへ舟を漕ぎだしてしまったのは、昔の先生の言葉に心が引っ張られたからなのかもしれません。
虹を後ろに見ながら、オールで湖の水をぐっと押しました。
子供のころにボート部に入っていたから、オールの使い方は体にしっかり染みついています。
湖の水をごしっと体全体で押すように、ぐいっ、ぐいっと進んでいきます。
おひさまの光に照らされて湖面がキラキラと光り、顔を上げるたびに、遠くに見える比叡山(ひえいざん)がどんどん小さくなっていきました。

道しるべだった虹はすぐに消えてしまったけれど、パシャパシャと波に打たれながらボートを漕ぐのが楽しくて、そのまま進んでいると、「おーい!」と誰かの声を呼ぶ声が聞こえてきました。
そっちを見てみると、舟が3艘(さんそう)や4艘ほど集まっていました。
「本当にあるんだ!」と、胸の中にワクワクした嬉しさがこみ上げてくると同時に、蚤の市に並んでいるいろんな品物があまりにも面白くて、すっかり目を奪われてしまいました。

琵琶湖の古い絵はがき、流れ着いた木(流木)、シーグラス、能面(のうめん)、ピクニックのセット、カラフルなロウソク、信楽焼(しがらきやき)のタヌキ、ホイッスル、絵本、水蜘蛛(みずぐも)、十字の手裏剣、船のハンドル、マフラー、トロフィー、ながら漬け、ひょうたん、三輪車、黒板消し、スーツケース、南京錠(なんきんじょう)……。
みんな思い思いの宝物を、舟の上にドンと置いていたのです。

そこにある品物を見ているだけで心がウキウキしてきて、「これ、いったいどこで見つけたんですか?」と、品物のヒミツを店主のおじさんたちに聞いていたら、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
欲しいものはたくさんあったけれど、どれにするか決めきれません。かといって、何も買わずに帰るのはちょっぴり悔しいので、結局その日の夕ご飯用に「ゴリ(鮴)の佃煮(つくだに)」をもらって帰ることにしました。

この蚤の市は、お金じゃなくて「物と物とを交換する(物々交換)」で成り立っているみたいです。
何も持ってきていなかった真由美は、ここに来る途中に湖の上にプカプカ浮いているのをひろった「虹の模様の浮き輪」を、「あの、これじゃダメですかね…」とおずおずと差し出しました。そしたら相手がそれをすっごく気に入ってくれたので、無事に交換ができました。

それからというもの、真由美はこの蚤の市にずっと通い続けています。
今ではすっかり常連さんになっていて、雨が上がると「一番乗りだ!」とばかりに虹のふもとに駆けつけて、店主のお友達たちとおしゃべりするのが毎日の大好きな日課になっています。

真由美は、音楽教室の先生をしていたお母さんの形見(かたみ)で、どうやって片づけたらいいか困っていたたくさんの「楽譜(がくふ)」を木の箱にぎっしり詰めて、この蚤の市に持っていくことにしていました。
ピアノの教本そのものもあれば、教本からコピーしたものもあり、生徒さんのレベルに合わせて何枚も渡せるように、同じページが何冊分もありました。
真由美も一通りピアノのレッスンは受けていたけれど、お母さんのように熱心にはなれなくて、いつの間にか音楽から遠ざかってしまいました。
お母さんが大切に見ていた景色を自分が引き継いであげられなかったな…と、ちょっぴり申し訳ない気持ちがあったのですが、この蚤の市で楽譜を真剣な目でじーっと見つめる人に出会うと、お母さんが愛した世界が今もこうして続いているんだと感じられて、すごく嬉しくなるのです。

今日も、真由美とだいたい同じくらいの年の女性が、「うわあッ、懐かしいなぁ!」と目をキラキラ輝かせて、赤いバイエル(ピアノの教本)を手に取り、練習曲を口ずさんでいました。
「この楽譜がほしいんです」と言ってくれる人がいれば、その人が持ってきている品物の中から「これ面白そう!」というものを探します。
アシの草で作った鳥笛、きれいな鉱石でできたチェスの駒、もう引退した「飛び出し坊や(とびたくん)」、八角形のホテルの見取り図、動かなくなっちゃったメトロノーム、デパートのレストラン街にあった本物そっくりなおうどんの食品サンプルなどなど……。ほかでは絶対に手に入らないようなお宝が、いつの間にか真由美の手元にたくさん集まっていました。

「おーい!」
遠くのほうから、1艘の青い舟が蚤の市に向かってやってきました。
4本のオールがまるで1匹の生き物みたいに、「エンヤッ、エンヤッ」と息ぴったりに小気良く動いています。
いつだって少し遅れてやってくる、あの双子の兄弟の舟を見るのが、真由美は大好きでした。
体は小さめだけど、大学のときにアメフトをやっていたというふたりは、いつも息ぴったりに舟を漕ぎます。
なんでも、ふたりは山の奥のほうで、木彫りのおもちゃを手作りしているんだそうです。彼らが蚤の市に到着すると、なぜか山の香りが湖の上にふんわりと広がっていくような気がします。
真由美は遠くから手を振ってあいさつし、双子の兄弟と元気に最近の出来事を話し合いました。

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