初級翻訳・虹のこ 第2話

澤西 祐典

ふたりがやってくると、それはもうすぐ店じまいをする合図でもありました。
「これをもらってもいいかしら」
真由美が持ってきた楽譜をじっと見ていたお客さんが、クリップでまとめられた楽譜の束を手に取りました。
それは「琵琶湖周航の歌」の楽譜(スコア)でした。
ピアノを始めたばかりの練習曲といえば、カノンやトルコ行進曲が定番ですが、お母さんの音楽教室ではいつもこの曲を教えていたのです。
自宅のリビングが音楽教室をかねていたので、毎日このメロディが聞こえてきて、当時の真由美はうんざりしていたのをよく覚えています。
「ええ、ぜひぜひもらってください!」
そう言って、真由美はその女性が持ってきた品物に目を向けました。
子育てでたくさん集まったのでしょう、小さな子ども用の洋服がブルーシートの上にきれいに並べられていました。
赤ちゃん用の靴下から、十歳くらいまでのいろんなサイズの男の子の服で、緑色や灰色(グレー)のものが目立ちます。
真由美の娘たちは、もうとうにその年齢をすぎて大きくなっていました。
どうしようかなと見回していると、パッと黄色い水泳キャップが目に入りました。
蛍光ペンのような、とっても鮮やかな黄色いキャップです。
それを見た瞬間、昔に琵琶湖で溺れかけたときの記憶が頭の中にパッとよみがえりました。
小学校の伝統行事の一つに、琵琶湖を泳いで渡る「遠泳大会」がありました。
水泳が得意だった真由美は、上級者むけのクラスに選ばれて、なんと一〇〇〇メートルもの距離を泳ぐ遠泳にチャレンジしたのです。
遠くからでも先生たちによく見えるようにと、その日はみんな黄色い水泳キャップを被っていました。
はじめのうちは順調で、スイスイと気持ちよく泳げていました。
プールの水とは違って、どこか生き物のようなあたたかいにおいがしました。
それなのに、水はひんやりと冷たかったのです。
いつも以上に手や足を動かすと、水が押し返してくる力をしっかりと感じました。
なにより、空と水面がどこまでも広がっていて、このままいつまでも泳いでいけそうですごく楽しかったのです。
スタートしてからのずっと、トップを走るグループの中にいたはずでした。
それが、もうすぐ折り返し地点というとき、プカプカと流れてきた水草に足をとられてリズムが崩れてしまったのです。
ずっと泳いでいて疲れていたこともあり、体をひっくり返して一度息をつき、すぐにまた泳ぎ出そうとしました。
けれど、何かがいつもと違っていました。
うまく息を吸うことができなかったのです。
足が空回りしてしまいました。
急に「足が底につかない!」というこわさに襲われました。
そこからはあっという間の出来事でした。
体がカチコチにこわばって、泳ぐどころではありません。
水面をめちゃくちゃに叩き、水をゴクンと飲み込んでしまいました。
どっちを向いているのかも分からず、足をジタバタとさせました。
水の中にいるのに、涙があふれてきました。
大変な異変に気づいた監視員のお兄さんがすぐさま助けに来てくれたおかげで、大事には至りませんでした。
記憶がごちゃ混ぜになって、はっきり思い出せないところもあります。だけど、強烈に覚えているのは、必死にもがいた先で掴んだ監視員の腕の「やわらかくて確かな温もり」と、大人に抱えられて陸にあがったときにずしんと体にのしかかってきた「自分の体の重たさ」でした。
気がつくと、真由美は浜辺にあった大きなパラソルの下に横たわっていました。
パラソル越しに届く太陽の光の暑さと同じように、手のひらに残る感触と、体にどっしりとのしかかる自分の重さが、真由美の頭からいつまでも離れなかったのです。
琵琶湖の湖面は、そのときも変わらずキラキラと輝いていました。
その中を、子どもたちの黄色い水泳帽が列をつくって泳ぎ続けています。
その列から外れてしまった真由美だけが、太陽の光の下で「息をしていることの重たさ」をひとり感じていました。
「これ、いただいて帰りますね」
ふたりは水泳キャップと楽譜を交換して、ボートを岸から離しました。
あれからというもの、オリンピックや世界の大会が開かれて、テレビに水泳の競技が映し出されるたび、真由美は選手たちがゴールし終えて水から顔を出す姿を見ると、なぜかホッとした気持ちになるのでした。
肩でハァハァと息をする選手たちが映るたびに、「無事に生きて戻ってこられてよかったなぁ」という喜びや、陸の上で普通に息を吸うことのありがたさを、心の底からかみしめるような思いが胸いっぱいに広がります。
それはあの琵琶湖での遠泳のときに、心の中に芽生えた感覚だったのです。
あの黄色いキャップを見て、自分の心の中でずっと生き続けていたその気持ちに名前が見つかったような気がして、真由美はとても嬉しくなりました。
「それじゃあまた、次に虹が出たときにね」
虹の蚤の市は、そろそろおしまいの時間になっていました。
みんなでお別れのあいさつを交わして、舟がそれぞれの岸へ向かって離れていきます。
普段は対岸も見えないほど広大な琵琶湖の、どこかの端っこで、みんなそれぞれに暮らしています。
もちろん、みんなの生活がそれぞれ待っているのです。
真由美はエンジンを小さくブルンと鳴らしました。
名残惜しくて、できることならいつまでもここにいたい。
けれど、いつまでもそうしていわけにはいきません。
ほんの一瞬、このあとに返信しなければいけないお仕事関係のめんどくさいメールを思い出して、気分がすこしどんよりしました。
娘たちが学校から帰ってくるまでに、夕ご飯の準備をすませておかないといけません。
急がなくては。
お仕事モードに切り替えて、舟のスピードをぐっと上げました。
ピシャリと波とぶつかって、ボートが小さくポンと跳ねました。
真由美はいつの間にかしっかりと握りしめていた、あの小さな「水泳キャップ」を、自分の頭にむりやりスポッとかぶりました。
頭がキュッと締め付けられて、少しだけ痛いです。
でも、不思議と安心感が広がっていきました。
大きく息をすいこみます。
ボートが進む先で、お家の岸がいよいよ近づいてきました。比叡山から吹き下ろす風に、木々の葉が涼しげにさわさわと音を立てています。
そのすぐ脇に、真由美の家がありました。
湖を見おろす大きな窓に一目ぼれして、思い切って手に入れたお気に入りの家です。
もう一度大きく息を吸い込んで、真由美はボートのスピードをゆっくりと落としました。
空にかかっていた虹の気配は、もうすっかり消えてなくなっていました。
頭をギュッと締め付ける小さな痛みに、真由美はそのまま身を任せました。
キラキラと光る黄金色の波が、湖面にゆらゆらと揺れています。
なぜだかとても晴れやかな気持ちになって、真由美は黄色い水泳キャップをかぶったまま、楽しそうに鼻歌をうたいながら家路についたのでした。
〈了〉

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