初級翻訳・親鳥子鳥 第39話

佐々木 邦

そのあとすぐ母がこちらへ様子を見に来て、やたらと勧めるもんだから、もうどうしようもなくてね」
と、芳夫さんは男らしく白状した。
だけど、僕に対して大人の威厳を保ちたいのか、言葉をかなりかっこよく言い換えている。
「失敗したぶん印象が深く残った」なんて言っているけれど、実際はあのハプニングがよほど心に染みたのだろう。
「母に話した」というのは、きっと自分から「どうしても結婚したい」とねだったに違いない。
「縁があるかも」と言ったのも、自分でそう思い込んだからだ。
人に勧められて「どうしようもなかった」なんて言いつつ、実際は自分で解けない代数を教わる口実を作って、電車の飛び乗りなんて荒技を使ってまで駆けつけてきたくせに。

「芳夫さんも源太郎さんも、ご飯ですよー」
と、ちょうどその時、郁子が障子の向こうから声をかけてきた。
「また絹子さんも一緒ですよ」
と、僕は小声でこっそり教えてあげた。
「もう大丈夫さ、ハハハハハ!」
と、従兄の畑芳夫は、本当にすっかり骨抜きにされたダラシない男である。

◇

さて、他人の恋の観察なんてしている場合ではなく、自分の勉強こそが一番の問題だった。
いよいよ入学試験が目の前に迫り、あちこちの高等学校で願書の受け付けが始まっていた。
「どうだい調子は?」
と、いつものようにお隣の文一くんが話しかけてくる。
「全然ダメだよ……」
相変わらず僕には合格する自信なんてまったくなかった。
「どうだい、暗記もののほうは進んでる?」
と文一くんは、僕の勉強の進み具合を心配してくれているというより、僕がどれくらい油断しているかを探っているようにも聞こえる。
入試は競争だから、ライバルが失敗してくれることは、自分が好成績を取るのと同じくらい嬉しいことなのだ。
「いっそ受験生みんながインフルエンザとかにかかってくれたらいいのにね」
なんて、僕は昔から簡単な解決法ばかり考えてしまう。
「病気にならなくても、電車の故障とかでみんな遅刻してくれればいいのに。一人でもライバルが減れば、それだけで助かるのになあ」
と、文一くんもライバルたちの不運を祈っている。
同じ仲間同士の不幸を願うなんて、決して褒められたことではない。
だけど、国がもっとたくさんの高等学校を作って、この激しい受験戦争をラクにしてくれない限り、受験生たちは苦しさのあまり、どうしてもこんな意地汚い考えになってしまうのだ。

「源太郎や、お前本当に大丈夫かね?」
とお母さんが何度も心配して念を押してくる。
「ダメだって言ってるじゃないですか!」
と、僕はついイライラして怒鳴ってしまう。
自分でも自信がないのに、周りから期待されるのは荷が重すぎるのだ。
文一くんも、入試のことを聞かれるとすぐに怒り出すそうだ。

四谷の芳夫さんは、一度家庭教師を引き受けたという都合の良い口実を作っては、ちょくちょく我が家にやって来る。
しかしもともと数学が得意ではない上に、頭の中は絹子さんのことでいっぱいだから、幾何にしても代事にしても、教えるのにめちゃくちゃ時間がかかるのだ。
「今日はもうこれで十分ですよ」
と、僕は一、二問解いただけで「もういいですよ」と免除してあげる。
「そうだな、このへんの問題さえ分かれば、残りのところは自然に解けるはずだからね」
と、芳夫さんは決して無理をせず、すぐに勉強を切り上げてしまう。
そしてまっすぐ茶の間へと向かうのだ。
なぜかというと、絹子さんは必ず茶の間で新聞を読んで待っているから、本当に不思議なものだ。芳夫さんの手が空くのを、じっと待っているのである。

もし芳夫さんが二、三日遊びに来ないと、絹子さんはこんなふうに声をかけてくる。
「源太郎さん、あなたそんなにラジオばかりいじっていて大丈夫なの?」
「もうダメだって、自分でも覚悟を決めてるんですよ」
「そんなことありませんわ! 英語が得意だからすごく有望だって、芳夫さんがおっしゃっていましたよ。もっと数学を勉強なさったらどうですか?」
と、絹子さんは熱心に勉強を促してくるのだ。
「ちゃんと言われた通り勉強してますよ、これでも。代数の分からない問題が二、三個たまっているから、今夜あたりまた芳夫さんにお願いして来てもらわないといけないな」
と、僕は気を利かせてすぐに四谷の芳夫さんに電話をかける。

芳夫さんは数学は苦手だけれど、英語はものすごくよくできる。
いかにも今年の入試に出そうな問題を自分で作って教えてくれるのだ。
それに、まだ学校を卒業したばかりで試験の傾向にも敏感だから、受験生の気持ちにすごく寄り添ってくれる。
普通の家庭教師みたいに、
「これをやれば絶対に合格しますよ!」
なんて適当なことは言わない。
受験生というのは、たとえできなくても「合格したい!」という強い思いがあるからこそ、悶々と悩むものなのだから。
「テストが完璧にできて合格するのは当たり前さ……」「いよいよどうしようもなくなったら、出来なくても合格点を稼ぐ方法を考えなければならない」
という積極的な方針を教えてくれる。
「カンニングをするんですか?」
と僕はびっくりしてしまう。
「いや、不正行為は絶対にいけない。
しかし試験場へ入ったら、馬鹿正直になるのは控えなさい」
「いったいどうするんですか?」
「分からないからといって白紙のまま出すようじゃお話にならない。
まったく見当がつかないわけではないんだから、何か書くんだね。
間違っていても書いてさえあれば、先生によっては頑張った分のご褒美(点数)をくれることもあるよ」
「それはたくさん書きますよ!」
例えば地理の試験に『北極の動物を10匹挙げなさい』という問題が出たら、君は何と書く?」
「そんな簡単な問題は出ませんよ」
「いや、あくまで例えさ。
完全に分からなかった場合、それなりに答案を埋める方式の研究をするのさ。
北極にはどんな動物がいるね?」
「そうですねえ。
アザラシとラッコです」
「まだいるだろう? 10匹だぜ」
「ホッキョクギツネ」
「それでやっと3つだ。
3点しか取れない」
「ホッキョクグマ」
「4点」
「もう思いつきません」
「4点じゃ落第だ。
もっとよく考えてみるんだ。
それでもダメだったら、『ホッキョクグマ4頭、ホッキョクギツネ2匹、アザラシ2匹、ラッコ2匹』と書きなさい」
「なんだよそれ。
人を馬鹿にしているんですか」
「いや、これは本当に切羽詰まったときの裏ワザさ。
動物の名前を4つだけ書いてあとは余白にしておくと、一目で4点だとハッキリ分かってしまう。
これなら絶対に間違いようがない。
だけど今みたいにたくさん書けば、なんだか賑やかだから5点もらえるかもしれないだろ?」
「まさかあ」
「いや、入学試験のときには何千枚もの答案を見るんだから、採点する先生だってお手上げで頭がボウっとなってるんだよ。
つい釣られて、『2匹に2匹……』なんて数えてくれることもあるぜ。
同じ4点を取るにしても、余計な手間をかけさせてやれば試験官への腹いせにもなる。
もともと試験官と受験者は水と油、仲が悪いものなのさ。

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