初級翻訳・親鳥子鳥 第17話

佐々木 邦

イギリスやアメリカのお墨付きがついて初めて、「これは良いものだ」と採用する。
何をするにもいつもこの調子なのです」
とお祖父さんの演説はなかなか長くて、謡曲(のうきょく)のお稽古はなかなか始まりませんでした。
ドイツを打ち負かした主力だって、イギリスとアメリカなのだから――。
厄年。

ある日の学校帰り、僕はいつものように電車の中で「人間観察の修行」をしようと辺りを見回していると、目の前の席に座っていた洋服姿の二人連れが、さっそく話し始めました。
「何を若い者に向かって威張っていやがると思ったが、いざ自分が四十の声を聴くとなると、やっぱり若い頃とは違うな。
無理がきかなくなった。
体がだるくて重くなったよ」
と愚痴をこぼしたのは、大柄な男でした。
「まだまだ、そんな歳でもないでしょうに」
と相槌を打った相手は、少し若い部下らしき男でした。
「いや、こればかりは歳には勝てないものさ。
何を食っても、いまや二人前を食べるのがやっとだからね」
「二人前も食べられれば、十分じゃないですか?」
「もとは三人前はいけたんだが、この頃は食べ物によっては二人前すら危うい。
人間、食えなくなったらおしまいだな」
「理想が高いんですねぇ。
私なんかは一人前を食べるのがやっとで、それすら食べられない時は『どこか具合が悪いのかしら』と心配になってしまいますよ」
「そこなんだよ。
要するに、人間なんてものは『飯が食えるか、食えないか』、それに尽きるんだ。
何でもかんでもむやみやたらに食べまくっていた若い頃は、一晩や二晩くらい徹夜しても平気だったが、この頃はすっかり仕事の効率(のうりつ)が落ちてしまったよ」
と、大男はいたってシンプルすぎる人生観を持っています。
「今でも十分にお元気じゃありませんか?」
と若い方は部下らしく、とても丁寧な言葉遣いで持ち上げました。
「いやいや、昔の面影なんてどこにもありゃしないさ。
早い話が、風邪をひいたって、こんなにいつまでも治らない。
ゴホン、ほら、今だって咳が出ただろう? 昔は牛肉を一斤(いっきん)平らげて、熱燗を一本キュッとひっかければ、風邪なんてすぐに治ったものだがね」
「豪傑(ごうけつ)でしたねえ」
「その頃は、君のところの課長である川口君と私で、まるで相撲の両大関コンビだったからな」
「その川口さんこそ、すっかり昔の面影がありませんね」
「なにしろ私より二つ三つ年上だからな。
仕事の効率がグッと下がっている。
まあ、あいつのあの並外れた食う元気(エネルギー)があったからこそ、あそこまで出世できたんだろうけどさ」
「最近の若い連中は、とてもあんな課長クラスまで出世できやしませんよ」
「そんなこともないだろうが、あの川口君は本当に凄まじくよく食べた男だったよ。
ある晩、役所の帰りに二人で『精養軒(せいようけん)』へ寄って定食をガッツリ食べたのに、銀座へ出てきた途端、『先生、なんだか甘いものが食べたくなったな』と言い出したんだ。
よしきたと、私は彼につきあって、おしるこをご馳走してやった。
そうしたら少し経ってから、今度は『大将、今度は無性に辛いものが欲しいな』と謎かけをしやがる。
私も長年の付き合いだから勘がいい。
川口君のために、今度は日本橋で『寿司の立ち食い』を発起してやったのさ。
いいかい?
すでに立派な定食を食って、おしるこを平らげて、さらに日本橋で寿司を食ったんだぜ」
「それはまた、盛大ですねぇ」
「それからお腹を落ち着かせるために、わざわざ須田町(すだちょう)まで歩いたというのに、今度は二人して示し合わせたように、吸い寄せられるように焼き鳥屋へ入ってしまったんだ」
「おやまあ、それでもまだ食べ足りなかったんですか?」
「あんなにあれだけ食えたものが、今やまったく食えなくなっちまったんだから、なんだか心細いよ。
すっかり初老(しょろう)の体ってやつだな。
やっぱり、歳には逆らえないものさ」
と、大男はひどく悲観しています。
「しかしそれは、昔の元気がありすぎただけじゃありませんか? 初老になってからが、ちょうど今の私たちと同じくらいなんですから、少しも心配いりませんよ」
と、若い方は優しく慰めました。
「いや、ほかにも色々と『あてはまること』があるんだよ。
例えば、最近は朝早く目が覚めるようになってね。
これが実に良くない。
もともと人間という生き物は、なまけものに出来ている。
まだ頭も体も未完成な子供のうちはともかく、大人になったら『朝寝坊』するのが本当の姿なんだ。
それを、これといった努力もしないのに、朝の六時だの七時だのにパッと目が覚めてしまうなんて、決して良い健康状態の証拠じゃないね」
「きっと、夜早くお休みになるからでしょう?」
「朝が早いから、自然と夜も早くなるのさ。
それに、少し汚い話だが、夜中にトイレ(小便)に起きるようになってね。
初老になると、どういうわけかむやみにおしっこが近くなるんだ」
「そんなものですかねえ」
「我慢がきかないんだよ。
無理が利かなくなった動かぬ証拠さ。
昔は役所に行けばお昼までずっと座りっぱなしだったのに、この頃は必ず一度や二度はトイレに駆け込む。
体の栄養を『吸収する力』が衰えて、代わりに『外へ出す力』ばかりが盛んになるから、もうたまらんよ。
おい君、見てみたまえ。
こんなに白髪が生えてきているだろう?」
「そんなでもないんじゃありませんか?」
「いや、けっこう生えてるんだよ。
そのうえ、頭のてっぺんが薄くなってきた。
妻にまで『まるで鍋敷き(釜敷)みたいだね』って馬鹿にされる始末さ。
目だってもうそろそろ鳥目(とりめ/暗いところで見えにくい症状)になってきたぜ。
昼間は一人前の顔をしてビシッとしていても、夕方になると目の前がチラチラして見えにくくなる。
『乗換切符を拝見します』なんて言われても、そんなの無理な注文さ。
まさに『四十の暗がり』ってやつだな」
と大男は熱弁を振るいます。
「そんなにハッキリと症状が出るものなんですかねえ?」
と、若い部下はまわりの目もあるので、上役のあまりの熱弁にすっかり圧倒されて縮こまっていました。
「飯が食えなくなれば、すぐに分かるようになるさ。
体に栄養がちゃんと回らなくなれば、あっちもこっちもガタが来る。
学者連中が何と言おうと、要するに人生は『飯が食えるか、食えないか』、それに尽きるんだ。
君は、定食を一人前食べるのがやっとかい?」
「やっとですね」
「それじゃあ、今度牛肉でも食べに行こうか!
私だって無理をして大量に食えとは言わない。
牛肉なら、誰だって美味しく食べられるものだからな。
君なら、三人前はいけるだろう?」
「せいぜい二人前がいいところですよ」
「それじゃダメだ、やっぱり牛肉にしておこう。
そんな若い身空でお上品なことを言っていると、本格的な初老を迎える前にへたばってしまうぞ」「でも、おじさん、僕だって牛肉だけは今でも三人前は食べられるぞ。
もう少し元気を出したまえ。
出世なんてものは寿命の問題だ。

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