ぼくには考えがあったので、大急ぎで歩いた。
そして十分後には富子さんの家の呼び鈴を壊れるくらい鳴らしていた。
お手伝いさんが出てきてぼくの顔を見て笑った。
失敬な奴だ。
だけど今日はこんな女にかかっている暇はないから、富子さんに用があると言った。
「おや、太郎さんですか」
と富子さんが驚いた。
そんなに驚くこともなかろう。
北極探検から帰ってきたわけじゃあるまいし。
「森川さんはいませんか」
「そうねえ……今晩はまだ見えませんよ」
とはっきりしない返事をする。
「いなけりゃいなくてもいいんですが、僕は森川さんを裁判所へ訴えるつもりですから、そう伝えておいてください。
猫が薬瓶をひっくり返したくらいで、結婚をやめるなんて法律があるものか。
それは姉さんが笑ったのはもちろん姉さんが悪い。
悪いけれどもあの子はヒステリーなんですよ。
ヒステリーは何でも笑います。
もし姉さんが死んだらどうするんですか。
あんなふうに何も食べずにいればきっと死んでしまいます。
僕は森川さんに決闘を申し込む。
ナイフも持ってきた。
それから、僕に黙っていてくれって頼んだことも全部新聞に載せてやります。
お春さんだって……」
突然背後からぼくを捕まえて、ぼくの口をふさいだ者がいる。
おやと思う間もなく、ぼくはひょいと抱き上げられた。
「太郎さん、謝るよ。
喧嘩はもう終わりにしよう」
森川さんの声だ。
森川さんはぼくを抱いたまま、富子さんに挨拶して外へ出た。
「太郎さん、もう仲良くしようね。
僕がこれから行くから姉さんのところへ連れて行ってくれ給え」
道々森川さんはいろんなことをぼくにと尋ねた。
お春さんは本当に何も食べていないのか、顔色は悪いのか、お父さんは怒っているのか、お母さんは何と言ったのかと、そのほかさらに一ダースくらいの質問をするので、ぼくはうるさくてたまらなかった。
家へ帰ってから、ぼくは森川さんを客間に通した。
子供のように大人しくぼくの言うことを聞いているのだった。「この椅子に座って、右手をテーブルの上に乗せていてください。
すぐに姉さんを呼んできますから」
森川さんは写真を撮る気になって、ぼくの言った通りにしている。
普段からこうしていればいい男なのに。
ぼくはすぐに、お春さんの部屋へ駆け上がった。
「姉さん、姉さん、ちょっと下まで来てくださいな」
お春さんは返事もしない。
うつむいたままだ。
「姉さん、いいものがあるんですよ。
姉さんの好きなものが」
「いいからこうしてさせてちょうだい、姉さんは何んにも見るのも聞くのも嫌なんですから」
「けれども姉さんが一番好きなものだったらどうします?
行かなきゃ損ですよ」
「チョコレートなんか欲しくありません」
「そんなものじゃありません。
生きている……」
ドアをノックする音がした。
森川さんは待ちきれなくて、上がってきたのだ。
これからのことはあまりに可哀想だから書くまい。
第一、森川さんの見識に関わる。
ともかく森川さんは取り消しの取り消しをして、彼の鼻が治り次第、お春さんと結婚式を挙げ、琴瑟合奏(きんしつがっそう)とかいう音楽会を開くのだそうだ。
お歌さんのところへは、例の先生が相変わらず遊びに来ている。
あれは文法の教師で、もう四年もお歌さんの学校にいるのだそうだ。
「これはパスト、プアアヘクトでござる。
これはプレゼント、プアアヘクトでござる」などと言っていたら、ずいぶん飽きるだろう。
それで退屈だからお歌さんのところへ遊びに来るのだろうと察してはいたが、ぼくはどうもこの人を好かない。
普通の人なら、あのうなぎの件で気絶してからは来なくなるのが当然だ。
井上さんなんか、ぼくが目を突いていじめてからは、死んだか生きたかさえ分からなくなってしまったのだから。
それなのにこの教師はまったく懲りない男だ。
杖を隠されても平気でやって来る。
今日は新調の麦わら帽子を隠してやった。
お父さんまで出てきてぼくを叱ったけれど、ぼくは亀の子のようにじっと黙っていた。
今頃は忠公が、彼の帽子の中に生まれたてのハツカネズミを入れていることだろう。
親から離れるようになったら、ぼくが二匹もらう約束なのだ。
風邪をひいて十日ばかり寝込んだ。
ただの風邪じゃないから、こんなに長くかかったのだ。
忠公が悪い。
忠公と魚釣りにいったら、忠公が「泳ごうじゃないか」と言い出した。
ぼくは泳ぎを知らない。
だから「五月から泳ぐ奴は馬鹿だ。病気になるぞ」と言ってごまかした。
けれども忠公は引き下がらない。
「五月だって六月だって泳ぎたくなればいつでも泳ぐ、戦争の時には寒さの中でも泳がなくちゃならない」と言った。
ぼくは忠公の理屈のほうが正しいような気がして、仕方がないから浅いところで泳いだ。
忠公は何ともなかったのに、ぼくは風邪をひいてしまった。
本来なら、言い出しっぺの忠公が大病になるはずなのに、付き合って泳いだぼくがこんな目に遭うなんて、本当に馬鹿げている。
世の中にはこういう理屈の通らないことが実に多い。
今日はいよいよお春さんと森川さんの結婚式だ。
お花さんの時にはいろいろとお手伝いをしてあげたけれど、今回は病気になったのだから仕方がない。
せめて式とご馳走だけでも出てやろう。
少し喉の調子が変だけど、我慢すれば大抵のものは食べられる、などと思いながら寝ていると、森川さんとお春さんの話し声が聞こえてきた。
「もうすっかり元気なんですよ。
いいけれども、何か薬を飲ませてもう一日寝かせておきましょう。
また何を仕でかすか分かりませんから、そのほうが安全です。
あんな子は布団の中にさえ入れておけば間違いありませんからね」
「そうねえ、あなたからうまく言って聞かせてちょうだい。そうすれば私も安心ですから。
けれど、ちょっと可哀想ね」
「なあに、少しも可哀想なことなんかないですよ。
お菓子でもやっとけばいいんです」
ぼくはびっくり仰天してしまった。
なんと恩知らずな連中だろう。
あんなにぼくが世話をしてやったのに。
人は見かけによらないものだ。
これからは人を見たら泥棒と思っているほうが、布団の中に大人しく寝ているよりもよっぽど間違いない。
お春まで一緒になって、ぼくをずっと寝かせておくつもりでいる。
薬なんか持ってきても、飲むもんか!
ぼくの方だって考えがある。
こうなったら無理にでも結婚式に行ってやるんだ。
本当に寝かせておくつもりらしくて着物を出してくれないから、ぼくは寝巻きの上にシーツを被っていった。
下には大勢の客が詰めかけているから、こんな格好で行けばすぐに捕まってしまう。
それで仕方なしに窓から抜け出し、雨どいを伝って下に降りて、教会へと駆けつけた。
門番のおじいさんが庭掃除をしていたが、隙を突いてぼくは会堂に飛び込んだ。
まだ誰も来ていない。
「よし、めっけもんだ」と思った。
説教壇の後ろに椅子がずらりと並べてある。
花もたくさん飾ってある。
ぼくは椅子の下に潜り込んだ。
すっごく窮屈だったけれど、息を殺してじっと我慢した。
待って待って、足がしびれ出してから、ようやく人が集まり始めた。
大勢来ているようだけれど、シーツを被っているから顔は見えない。
初級翻訳・いたずら小僧日記 第20話
いたずら小僧日記
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