初級翻訳・親鳥子鳥 第24話

佐々木 邦

髪をさっぱりさせれば気持ちがいいことくらい分かっているけれど、タイミングが悪いと床屋で一時間も待たされることになると思うと、どうしても億劫になって腰が上がらないのだ。
「源太郎は変な顔をしているね。どこか具合でも悪いんじゃないのか?」
と、今朝の朝食のときにでお父さんが尋ねた。
「髪が伸び放題だからでございますよ。この間から何度も催促しているのに、あれやこれやと理由をつけて全然行こうとしないんです」
とお母さんは、いい機会だと言わんばかりに僕のだらしなさを訴えた。
「行ってきますよ。今日は日曜日ですから」
と、僕は「もう覚悟を決めるしかない」と思い直した。
「午前中ならそんなに混まないから、早く行ってくるといい。まるでタヌキの子みたいになっているぞ」
とお父さんが言ったとき、
「フフフ」
と、妹の郁子(いくこ)が笑った。
さらに、下の妹の敏子(としこ)が食卓の下で僕の膝をちょんと突いた。
この二人は、長男である僕の形勢が悪いと、顔を見合わせるだけで嬉しがるのだ。
まったく、よくない癖である。
「タヌキの妹め」
と、僕は小声で言い返してやった。
「そうそう、この間、向こうの新聞に床屋で気絶した人の記事が載っていたよ。いつまでも待たされるものだと思ってお店に入ったら、待ち合いの椅子がガラガラに空いていたものだから、びっくりしてフラフラッと倒れそうになったんだってさ。いかにもありそうな話だよな」
と、お父さんは今朝は機嫌がいい。
日曜日のため、一日ゆっくり休めるからだ。
「まさか、そんな大げさな」
とお母さんは本気にしない。
「もう一人、今度は電話口で気絶した男の話もある。チリンチリンと鳴って、どこそこの何千何百番ですかと聞かれたときに、交換手が間違えずに一発でその番号につないでくれたものだから、あまりの早さにびっくりして腰を抜かしてしまったんだとさ。『はっと思った』ところまでの記憶しかなかったと、後から本人が言っているそうだよ。これもいかにもありそうな話だ」
「お父さんのように、電話をかけるのが下手な人の話でしょうね?」
と、郁子が相槌を打った。
「そうさ。お父さんなんて、一度や二度じゃなかなか相手に通じない。さんざん言い直した挙句、『ただいまお話し中です』と言われてしまうからな。ところで、もう一つ面白い話があってね。ある男が郵便局で突然死んでしまったんだ。死人に口なしだから本当のところは分からないけれど、きっと郵便局に備えつけられている書き損じ防止のペンを見て、あまりのプレッシャーに肝を潰してしまったのらしいよ。まあ、こんなことが起こるのは、日本くらいのものだろうな」「郵便局に自由に使えるまともな筆が置いてあった例なんてないからね」
とお父さんはこういう意地の悪い冗談が大好きだった。
「本当にそうですね。
まるでネコヤナギみたいにボロボロですわ」
と郁子が再び調子を合わせた。
お母さんは、もっと真剣な家庭の重大事でないと相手にしてくれない。
朝ご飯が済んで勉強部屋の掃除をしていると、
「源太郎や、今日こそは本当に散髪に行っておいで。
お前、お小遣いがないんじゃないの?」
とお母さんがわざわざ様子を訊きに来てくれた。
「あります。
すぐ行ってきます」
と僕はもう逃げられない状況になって家を出た。
門のところでお隣の文一君に会った。
「おはよう。
どこへ行くの?」
「散髪だよ」
と文一君は指でハサミの形を作って自分の頭に持っていった。
なるほど、今日は第1日曜日だ。
文一君は散髪に行く日がきっちり決まっている。
第1日曜日なら、床屋さんの休日にぶつかることは絶対にないと言っていたことがある。
何でも几帳面だから敵わない。
「僕も散髪なんだ。
一緒に行こうよ」
「でも僕は、途中で郵便局に寄ってこの小包を出していくよ」
「いいとも。
付き合うよ」
と僕たちは連れ立って歩き出した。
「君は、散髪屋のライバル争いを知っているかい?」
「知らないな。
どうしたんだい?」
「今度、すぐそこの角に新しい店ができただろう? あそこが、河口(かわぐち)っていう古い床屋と激しく競い合っているんだよ」
と文一君が教えてくれた。
「そうなのかい。
あの河口の頑固な親方のことだから、今頃は大騒ぎだろうね」
「向こうの新しい店は、ひいきの金持ちから資金を出してもらっているんだ。いわゆる『ブルジョア(お金持ち)とプロレタリア(労働者)の戦い』だって、みんな言っているよ」
「小学生なのに、すごいことを知っているんだね」
「あれでも僕は、昔上海まで船旅をしてきたからね」
「それはそうと、受験勉強のほうはどうだい?」
「少しもうまくいかないよ。
まだ数学が一通り終わったばかりなんだ」
「とうとうそこまで進んだのかい? すごいなあ」
と、話題はいつものように受験勉強のことになった。
「ここだよ、今度の新しい散髪屋は」
「なかなか大きいね。
河口の店よりも立派じゃないか」
「だからこそ、向こうも必死になって対抗しているのさ。でも僕たちは、昔からずっと河口に通っているから、河口をひいきしてやるんだ」
「もちろんさ」
「だけど、そんなに髪が伸びないうちから通っては、かえってひいきにならないぜ」
「これから月に一度ずつ行ってやるつもりさ」
「みんなで二度ずつ通ってやれば河口が絶対に勝つはずなんだけど、そんなに早く髪は伸びないからなあ」
ちょうどその河口の前を通りかかったとき、
「おや、看板を塗り替えているぞ。『民衆理髪軒プロレタリア屋』なんて、なんだか気合が入っているな」
と僕は足を止めた。
「『プロレタリア』っていう名前が好きなんだろ」
「ちょうどよく空いているみたいだな」
「君は先に店に入って待っていてくれ。
僕はこの小包を郵便局に置いてすぐ戻るからさ」
「いや、一緒に行くよ。
どうせ散髪に行くんだし……。おや、『近所に偽物あり。御用心』って書いてあるぞ」
「向こうの新しい店のことさ」
「しかし、床屋に『偽物』なんてあるのかね」
「偽物さ。
ほかの店の縄張りに無断で、そっくりな店を勝手に出したんだから」
と、文一君はどこまでも河口びいきだった。
郵便局に着いて、文一君が小包を「書留(かきとめ)」の手続きにしてもらっている間、僕はふとお父さんの話を思い出して、カウンターにある備え付けの筆台の筆を調べてみた。
なるほど、ひどいものが置いてある。
3本とも、実用としてはネコヤナギの枝と大差ない代物だ。
郵便局の事務員が使い古して捨てるはずのものを、そのまま客用に置いているらしい。
逓信省(ていしんしょう)は、日本国民を一人残らず「弘法大師(字が上手な人)」だと思い込んでいるに違いない。
「いったいどれくらい書きにくいものか」と、たっぷり墨汁を含ませて試してみたのが運の尽き、僕は間もなく、このネコヤナギのようなひどい筆で、とんでもなく厄介な手紙を代筆するはめになってしまったのだ。
「もしもし、お坊ちゃん」
と、ちょうどその時、印字された法被(はっぴ)を着て手甲(てこう)をはめた女性に声をかけられたのである。
「なんですか?」
「恐れ入りますが、ハガキを一枚書いていただけないでしょうか。

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