初級翻訳・親鳥子鳥 第19話

佐々木 邦

でも、電灯の下でよく確かめてみたらちゃんと動いていたから、今度は右の耳にあてがってみたんだ。そしたらカチカチとちゃんと聞こえるじゃないか? それから何度も試してみたんだけど、左の方はすっきりとすぐそばまで寄せないと聞こえないんだ」
 とお父さんは詳しく説明した。
僕は、「やっぱり初老の影響が耳に出たんだな」と思った。
「鎌田さんに診ていただいたらどうでしょう?」
 とお母さんはさっそくお医者さんを勧めた。
「診てもわからなくても、もう自分で分かっているよ。
聞こえないんだから。
さっきからこうやって右の方をふさいでいると、お前と源太郎が口ばかりパクパク動かしていて実に面白い。
まるで活動写真のようだね」
 とお父さんはどこまでいっても主観の塊である。
いつもこんな調子の論理で新聞の社説を書いているのだから、周りはたまったものではない。
「のんきなことを言っていらっしゃる場合じゃありませんよ」
「こうして考えてみると、左の耳はもうずいぶん前から悪かったみたいだな。
電話に出るのを面倒くさがっていたのも、きっとそのせいだ。
左右の聞こえ方が違うとは思いながらも、無意識のうちにいつも聞こえやすい右の方ばかりを耳にあてていたんだな。
それでも、左の耳が遠くなっているとは露ほども思わなかった。
ただ単に、自分が電話の使い方が下手なだけだと思い込んでいたよ」
「あなたは何でもそうなんですから。
ご自分のことになると、いつだって最初から良いように決めつけていらっしゃるわ」
お母さんはこのチャンスを利用してお父さんをなんとか諭そうと熱心に努めた。
「最初から『自分の耳が悪い』と思い込む人間なんてどこにもいないさ。
もし中耳炎でもやっていれば話は別だけどね。
それにしても驚いたよ。
耳が遠くなっていることにも気づかないなんて、我ながら気が利かないものだ。
そんなことも知らずに、『おい、もっとはっきり大声で喋れ!』なんて電話の相手を怒鳴りつけたりしていたんだからなあ」
「耳だけじゃありませんよ、問題なのは」
「まあ、とにかく人間は自分のことって本当にわからないものだな。
今日はちょうど右の手に鞄を持っていたから、左の手で時計を拾って、そのまま左の耳に当てたんだよ。
もしあの時時計を落していなければ、今でも気づかずに過ごしていたところだ。
まさに偶然の大発見さ」
「あまりめでたい発見じゃありませんね。
そうお聞きすると、あなたは以前から耳が遠かったのかもしれませんよ。
私は今まで、私の気に入らないことがあると返事をなさらないいじわるな癖なのだとばかり思っておりましたが、本当に耳が悪くなっていたのならなんだか心細いわ。
急に耳が遠くなるなんて……」
「耳が遠い、遠いって、何度も繰り返すなよ。
なんだかおじいさんじみていて、外聞が悪いじゃないか。
『耳の調子が悪い』と言いなさい」
 とお父さんは相変わらず気難しい。
「同じことではありませんか?」
「『耳の故障』と言ったらちょうどいいんじゃないでしょうか?」
 と、僕はここで初めて会話に加わった。
「そうだな。
『聴覚機関の故障』と言ってもらおう」
 とお父さんはすっかり見栄を張っている。
「結構でございますよ。
急にやってきた聴覚機関の故障なら、早く手当てをすればきっと治ります。
とにかく、鎌田さんに診ていただいてくださいませ。
どこかお悪いところがあるなんて、私、気が気じゃありませんわ。
なにしろ年回りがあの年回りですからね」
お母さんはすっと言葉を改めて、心から切実にお願いした。
「またその話が始まったぜ。
しかし、すぐに診てもらうよ。
今のところ別に日常生活で不便はないけれど、この調子じゃせっかくのいい方の耳まで悪くなったら大変だからな」
「どれくらいお悪いのか、ここで実際に試してみてくださいませ」
「よし。
何か言ってみろ」
お父さんは右の耳をぴたりとふさいで、しっかりと身構えた。
「あなた。
あなた。
聞こえますか?」
「そんな大きな声なら、そりゃあ聞こえるさ」
「聴覚機関の調子は如何でございますか?」
「それぐらいの声なら聞こえるよ。
低い声がどうしても聞こえないんだ」
「厄年でございますよ。
お気をつけ下さいませ」
「…………」
「むやみに威張っていらっしゃっても、通りませんよ」
「…………」
「ご自分ばかりが一番物知りだと思っていらっしゃるんでしょう?」
「少しも聞こえないね」
「聞こえそうなことばかり申し上げているのに、やっぱり相当……聴覚機関に故障が起きていますわね。
困ったことになりましたね」
お母さんは予想以上に思わしくない結果に直面してしまった。
「なに、大したことないさ、気にするもんか。
耳が悪いのなんて、別にこっちの負担にはならない。
話の相手に大きな声を出させればいいだけの話だからな」
 とお父さんは負け惜しみを言った。
耳鼻咽喉科の鎌田さんは、我が家の長年の顔馴染みである。
うちの子どもたちはみんなお父さんに似て喉や鼻が弱く、次から次へと扁桃腺を切ってもらっている。
お父さんも時々お世話になっていた。
その聴覚機関の故障を発見した翌日は、会社に出勤する前に病院に寄ってきたらしく、夜になってからその報告があった。
「初老」というものに深い興味を抱いている僕は、もちろんその話を一言も聞き漏らさなかった。
ももともと他人の言うことにあまり耳を貸さない人なのだから、これから本当に耳が聞こえなくなって会社での仕事に支障でも出たら、家族みんなが大困りしてしまうからだ。
「やっぱり鼻と喉から来ているらしいんだ。「耳の中の管がつまっているから、耳が遠くなったんだそうだ。
お医者さんで検査をしてもらったら、右耳の半分くらいしか聞こえていないらしい」
 とお父さんは今回の不具合の様子を話した。
「すぐに治りますの?」
「いや。
治らない。
これ以上悪くならないように、時々鼻から空気を送り込むしかないんだそうだ」
「なんだか心細いですわね!」
 とお母さんは心配そうな顔をした。
「いや、実はもう一つ、心細い発見をしてきちゃったんだよ」
「やだやだ、これ以上聞きたくありませんわ!」
「鎌田さんはヤブ医者じゃないから、どうあっても治らないということを納得させるために、分厚い専門書を持ち出してきてね。
そこに載っている図がすごく細かくて、目がチカチカしてきたんだ。
だから本を少し遠ざけてじっと見ていたら、『これをかけてごらん』と言って眼鏡を貸してくれた。
なるほど、それをかけると文字がハッキリ見える。
不思議に思って、『これはどういう眼鏡なんですか?』と訊いたら、『弱い老眼鏡だよ』って笑いながら答えるじゃないか!」
「すると、もう老眼でいらっしゃるんですの?」
「老眼というほどでもないらしいが、四十を過ぎると視力が弱ってくるそうだ。
夜に読書をする時は、そろそろ弱い老眼鏡を使うほうがいいだろうっていうお医者さんの診断さ。
専門のお医者さんにも相談しなさいって言って、紹介状まで書いてくれたよ」
「やだわあ。

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