初級翻訳・親鳥子鳥 第26話

佐々木 邦

「時代も進んだものだなあ」
「どうして?」
「あんなに教育がなさそうな人なのに、あんなに威勢の良い女権論者(女性の権利を主張する人)がいるんだからさ」
「あれは女権なんかじゃないよ」
「それじゃあ何なんだい?」
「カカア天下さ」
「同じことじゃないか」
「教育のある人の中にも、あんな風に威張っている人はいくらだいるぜ」
「そうそう、活動写真(映画)でも見たことがあるよ」
僕たちの話はしばらくの間、さっきの女性労働者の話題で持ちきりだった。
散髪屋の店の前まで差し掛かった時、
「おい、あの頑固なお爺さんが店に入っていくぞ」
と僕は嫌な予感を覚えた。
順番を待たされるのが一番辛いから、今はすっかり神経過敏になっているのだ。
「なあに、大丈夫だよ」
文一君が太鼓判を押した。
なるほど、ちょうど店通り過ぎたので安心したその刹那、お爺さんは何を思ったか急に立ち止まった。
「いけないいけない」
そう呟いた時にはもう遅かった。
クルリと体の向きを変えて、そのまま店の中に入ってしまったのだ。
僕は床屋に来るたびにいつもこのパターンに引っかかる。
本当にわずかの一足違いで、また無駄に三十分も待たされて新聞を読まされる羽目になるんだ。
「かなり混んでるみたいだぜ。
君はさっき郵便局のついでに別の店に寄ればよかったのにね」
文一君が気の毒そうに言った。
「なあに、まだ早い時間だから大丈夫さ」
と高をくくって中に入ったが、店内はすでに客でいっぱいに埋まっていた。
「いやあ、良いお天気が続きますなあ」
と、まさに一足違いで先に入ったお爺さんが、店内に唯一つだけ残っていた椅子をドッカリと占領していた。
せっかく時間を見計らって出てきたというのに、平塚の踏切の辰さんのせいでこんなことになってしまった。
僕たちはとことん待たされる運命らしい。
「おや、坊ちゃんたちご揃いで。
順番はもうすぐですからね」
散髪屋の親方はいつも通り愛想が良い。
もっとも、この男の言う「もうすぐ」は、だいたい三十分から一時間に及ぶのが常だった。「やあ、ここはだいぶ混んでいるな」
と言って、また一人お客さんがやって来ました。
やっぱり一足違いでしたが、僕たちはもう一世紀前から待っているようなすました顔をしてやりました。
「いらっしゃい。
旦那、もうすぐ順番が来ますからね」
と親方はカミソリを研ぎながら迎えました。
「待つとするかな」
と新しく来た客は腰を下ろしました。
可哀そうに、僕と文一君が椅子を占領しているから、そのお客さんは新聞の付録しか読むものがありません。
親方はさっき剃りかけていた髭に戻ると、
「それで、さっきのその作戦というのは、いったいどういう寸法なんです?」
と話の続きを始めました。
「名案だけど、多少お金がかかるぜ。
日当が必要になる」
「どうせライバルとの競争ですから、金に糸目はつけませんよ」
「大きく出たねえ」
「どうします?」
「謀事(作戦)は秘密裏に進めるのが一番いい。
ここでペラペラ公開しちゃダメだよ」
とお客さんはもったいぶりました。
「大丈夫ですよ。
ここにいるのはみんないつも来てくれる贔屓(ひいき)のお客さんばかりですから」
「それじゃあ、秘伝を授けてやろうか。
乞食(こじき)どもをかき集めて来て、あそこの店に送り込むのさ。
親戚に二人や三人はいるだろう?」
「冗談言っちゃいけませんよ」
「これがよく効くんだぜ。
汚い奴ばかりが出入りすれば、自然とお客さんは離れていくからね」
「なるほど、よく考えましたね」
「本職の乞食じゃなくてもいい。
おできのある奴や、禿頭(はげあたま)、皮膚病の白雲田虫(しろくぬだむし)、湿瘡(しっそう)、皮癬(ひせん)なんかの奴を見繕って、代わる代わる坐り込ませるのさ。
これなら親戚にいくらでもいるだろう?」
「旦那は口が悪いなあ。
そんな連中は、皮膚病院じゃないって言って叩き出されますよ」
「叩き出されたら、なおさら好都合さ。
大きな声で怒鳴らせるんだ。
人だかりができて、近所中の大評判になるからな」
「はてな」
「どうしたんだ?」
「そう言えば、あそこの店じゃあ、もうすでにそれをやっているんじゃないですかね?
昨日は、皮膚病のひどい客が一人来ましたよ」
と親方は僕たちのほうを向いてペロッと舌を出しました。
お客さんは目を閉じていたので、それが冗談だとは気づかず、
「もちろん断ったんだろうね?」
とまんまと乗せられてしまいました。
「いや、顔を剃り終わってから見つけたんです」
「いやだなあ、それは嫌だね」
「やっぱり旦那のこの椅子に座りましたよ」
「おいおい、驚かすなよ」
「ハッハハハハハ!」
「しかし、油断はならないぜ。
こっちがこっちなら、あいつもあいつだろうからな」
「そこなんですよ。
あんな変なデマを言いふやすから、腹が立って仕方がない。
俺が大地震の時に人を殺したなんて、とんでもないことを言いふらしたのも、あいつの仕業なんですぜ」
「ふうむ。
いったいどういう経緯(いきさつ)なんだ? やっぱり例の自警団の話がバレたのかい?」
「冗談言ってもらっちゃ困りますよ。
人が本気にするじゃないですか!」
「真面目な話、どうなったんだい?」
「こうやってお客さんの喉のあたりにカミソリを当てているところへ、グイッと地面が持ち上がってきてね、カミソリがほんのちょっと食い込んで即死したって言うんですよ」
「気味が悪い話だなあ。
おいおい、地震が起きないでくれよ」
「ちょくちょく耳に入るから、聞けば聞くほど腹が立って、イライラし通しですよ」
「まあお手柔らかに頼むよ。
今なら金の無心をされても快く承知するからさ」
「実際に考えてみると、床屋ほど信用のある商売はありませんな。
こうやって旦那の喉笛にカミソリを当てているんですから」
「よせよ、よせよ!」
「殺そうと思えば、生かそうと思えば、俺の気持ひとつなんだからな」
「まったくその通りですね」
「毎日毎日こんなことをやっていて、よく人を殺す気にならないものだと思うと、我ながら感心しますよ」
「殺されてたまるもんか!」
このお客さんが終わると同時に、もう一人の客が終わり、いよいよ僕たちの番になりました。
僕たちのような「一分刈り」の客は、よほど巡り合わせが良くないと親方の手にかかれません。
大事な頭を、まだ見習いの小僧の稽古台に使われてしまうのです。
早くて痛いのが特徴で、髪の長さなんて十分もあれば片付いてしまいます。
顔のあたりを剃ってもらっている頃、
「近所に新しい店が一軒できたから、多少は影響するだろうね?」
と、さっきのお爺さんが親方に話しかけました。
「やっぱりチビチビとお客を奪われますねえ」
「競争に勝つなら、絶対に間違いない方法が一つあるんだ」
「それは有難い。
ぜひご伝授願いたいものです」
「美人を置くんだよ、美人をさ」
「なるほど! それは当たり障りがなくて良さそうですね」
と親方は大喜びしました。
少なくとも、乞食を送り込むよりはずっと実行性があります。
「俺の若い頃の話だがね、近所でやっぱり床屋の競争が始まって、もっぱら値下げ合戦をやったんだ。

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