当時は散髪代が三銭五厘だったよ」
「それは相当昔ですねえ」
「日清戦争の前だったからね。
物価が安かったんだ。
蕎麦なんて、もりやかけが八厘、具が入った種物(たねもの)でも二銭五厘という時代だったからな」
「なるほどねえ」
「その代わり、金も取れなかった。
巡査の月給が八円しかなかったんだから」
「それはそれとして、床屋はどうなったんです?」
「そうそう。
三銭五厘を三銭に下げ、二銭五厘に下げたが、それでも決着がつかない。
そのうちに、敵の店の方が美人を二人、見習い(下剃り)に使ったんだ。
するとどうだ、効果はてきめんでね。
客がみんなそっちへ行ってしまったよ。
ワイワイ騒ぎながらね」
「旦那も行ったんですかい?」
「もちろんさ」
「頼りにならない人だなぁ」
「同情心なんてものはないのさ。
俺だって昔からこんなお爺さんじゃなかったんだからな」
とお爺さんは椅子から降りたようでした。
散髪屋を出て家へ帰る途中、
「なあ君、世の中はやっぱり生存競争なんだな」
と文一君が大きな溜息をつきました。
「優勝劣敗さ。
働きのない奴は、お上さんに追い出されちまうのさ」
と僕はあの威勢のいい女性労働者を思い出しました。
「まったくその通りだ」「ビールなんかも、ものすごく競争がはげしいって、お父さんが言っているよ」
「新聞だって、少しも油断できないんだってさ。その日の売れ行きがその日のうちに数字ではっきり分かっちゃうからね」
「みんな一生懸命生きているんだから、入学試験くらい大変なのも仕方ないよね」
「みんなそれぞれ苦労があるんだなぁ。今朝は、ほんのちょっとだけ大人の現実社会をのぞき見できたような気がしたよ。おもしろかったね」
「おもしろかった! でも、あの床屋のおばさんは怖かったな」
と、文一くんも僕と同意見だった。
絹子さんの鼻
光陰矢の如し――あっという間に年の瀬が近づいてきた。
「あと何回寝たらクリスマス?」
と浩二が聞いた時、
「まだまだよ! 今から数を数えたって大変なんだから」
と敏子が笑ったのは、ついこの間のことのように覚えていたけれど、僕は今日から待ちに待った冬休みになった。
当分はのんびりくつろげる。
郁子も明日まで学校に行けば休みだ。
下の子たちも、小学校へ通っているくせに、明後日は通信簿、その次がクリスマスだと言って、今からわくわくして待ち構えている。
お父さんもお母さんも子どもを喜ばせるのが大好きだから、クリスチャンでもないのに、ちゃっかりクリスマスをやる。
その他のお祭り騒ぎなら大体どれも見逃さない。
だから、子どもの方も年中行事にやけに詳しい。
夏休みが終わると、今度は「お月見」を楽しみにする。
それから寒くなるまでの間はしばらく大きなイベントがない代わりに、クリスマスとお正月がすぐ背中合わせにやって来る。
その次は、年越しの豆まきだ。
この時はおじいさんが余興にチョコレートをまき散らすから、家の中の女中さんまで混ざって一生懸命拾い集める。
続いて、ひな祭り、五月の節句、お盆という順番で季節がめぐり、夏休みになると、田舎の故郷へ行ったり、海辺へ出かけたりする。
そのうえ、家族一人ひとりの誕生日もお祝いするから、我が家はなかなかやることが多くて大忙しなのだ。
今年の冬は、夏からの約束で、故郷(ふるさと)の絹子さんが東京のお正月をすごすために、一昨日から遊びに来ている。
大伯父さんとおじいさんが兄弟で、お互いのお父さんがいとこ同士だから、絹子さんと僕はまたいとこの関係になる。
僕よりは二つ年上で、もうすでに女学校を卒業している。
この前の夏に僕が故郷へ行った時、
「東京にいらっしゃったら、私がいろんなところをご案内してあげますね」
と言っておいたものだから、今回は僕が東京であちこち案内してあげなければならない。
もっとも、学校の修学旅行ですでに大体の名所は見て回っている。
「田舎もの扱いされちゃ困るわ」
とその時本人がきっぱりと言っていた通り、どこへ連れて行っても恥ずかしくない立派なお姉さま(令嬢)だ。
久久作さんみたいなヘンテコな人を連れて歩くような心配は一切ない。
妹や弟たちが学校へ出払ったあと、
「源太郎、あなた今日からお休みでしょう?」
とお母さんが念を押すように聞いてきた。
「うん、そうだよ」
「今日はね、おじいさんの代わりに、絹子さんを少し東京のあちこちへ案内してあげてくれない?」
「いいよ、どこへ行こうか?」
「どこでも好きなところでいいわよ。絹子さんと相談してごらん」
「そうするよ」
と僕は二つ返事で引き受けた。
そこへ、母屋の離れから絹子さんがやって来た。
「うちの中が賑やかすぎて、落ち着かないでしょう?」
とお母さんが愛想よく声をかけたう。
「いいえ、そんなことないわ。向こう(田舎)の家だってもっと賑やかよ。まだ乳飲みだいるからね」
そう言いながら、絹子さんは椅子に腰を下ろした。
「子どもたちが学校に出かけていかないと、なかなかゆっくりお話もできませんのよ」
「とんでもない、どうぞお気遣いなく、いつも通りになさってくださいね」
「昨日は明治神宮へ行ったんでしたっけ?」
「ええ、神宮から招魂社、そして遊就館を見学させていただきました。そのあと帰りには、陸軍省と参謀本部にも寄ってきたの」
「日比谷公園は行った?」
「ううん、行ってないわ。不良少年が出るって聞いたから……」
「まさか、そんなことないわよ」
「でも、そう言われたんですもの」
「うちのおじいさんは軍人だから、ご案内する場所はどうしてもそっち方面ばかりになっちゃうのよね。ちょっと堅苦しすぎよねえ」
とお母さんは楽しそうに笑った。
「私、もう大たいていのところは見て回っていますから、お家でゆっくり遊ばせていただくだけで十分なんですよ」
「今日は源太郎がご案内しますからね。源太郎なら、どこへでもあなたが行きたいところへ連れて行ってくれますよ」
「でも、源太郎くんもお忙しいんでしょ?」
「ううん、全然忙しくないよ、大丈夫!」
夏に田舎へ行った時にお世話になったから、僕にはちゃんと義理があるのだ。
「そう……」
絹子さんも、そのへんの事情はわかっているようだった。
しばらく他愛のない話をしていたが、ふと、
「おばさん、私、少しご相談したいことがあるのよ」
と、絹子さんは少しはにかむような薄笑いを浮かべながら切り出した。
本当は本当の叔母さんではないけれど、普段から親しみを込めて「おばさん」と呼んでいる。
僕だって故郷へ行けば、絹子さんの両親のことを「伯父さん」「伯母さん」と呼ぶことになっているのだ。
「なあに? 絹子さん」
「私ね、鼻を高くする手術(隆鼻術)を受けに行ってみようかと思っているんだけど……」
「隆鼻術? お鼻を手術するの?」
「ええ。あの手術って、ちゃんと効果があるものかしら?」
「さあ、どうなんでしょうねえ。でも絹子さん、あなたの鼻なんて、少しも低くないじゃないの」
「いいえ、低いのよ! それがずっと子供のころから気になってしかたがなかったの。
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