初級翻訳・親鳥子鳥 第22話

佐々木 邦

僕みたいにカバンをポンと放り出して、
「ただいま!」
 の一言で済ませ、
「お母さん、何か食べるものない?」
 とすぐにガツガツおやつにかぶりつくようなわけにはいかないのだ。
「源太郎は本当に行儀が悪いんだから。
お隣の文一さんを見習いなさいよ」
 とお母さんは何かにつけて僕を比べては、反省するように言ってくる。
文一君も窮屈で苦しいだろうけれど、そんな立派なお手本がすぐお隣にいる僕だって、いつだって気を引き締めていないといけないので大変だ。
それにうちのお母さんは、文一君のいいところばかりを見て、あれはすっかり実直な片山くんの影響だと思い込んでいるから、うちのお父さんのように「見ざる・聞かざる・言わざる」とは真逆の、言いたいことを何でも言う自由奔放な夫のことがちょっと不満なのだ。
「あなたも少しはお隣の片山さんのように、しっかりなさったらどうですか? 最近は毎晩帰りが遅いみたいですよ」
 なんて、時々お父さんに注意したりする。
会社の仕事が忙しくて帰りが遅くなると、お父さんは決まってお母さんから何か小言を言われる。
「参った参った。
『梅が香や隣りハ堅山……いや、堅之進か』」
「何をおっしゃっているんですか」
「いやね、立派な精神さえあれば、毎日わざわざおばあさまの部屋へ挨拶に行かなくても気持ちは通じ合っているものさ」
 とお父さんは冗談を言ってごまかすけれど、近所にあまりにも厳格な実行家が住んでいると、うちのお父さんのような自由な人間にとっては、けっこう肩身が狭くて迷惑だなと思っているらしい。
うちのお父さんは新聞記者という言葉をあつかう仕事だから、必ずしも「何でも厳格に行動で示すべきだ」とは考えていない。
世の中にはそれぞれ役割の分担というものがある。
慣れないことを急にやろうとしても、自分たちのキャラクターには合わないのだ。
ある日突然、お父さんがうちの部屋の敷居のところでペコペコと頭を下げて、
「浩一郎、ただいま戻りました」
 なんてやり出したら、おじいさんはきっと大笑いするに決まっている。
「ご機嫌麗しく、お姿を拝見できましてこれ以上の喜びはございません」
 なんて、さらにかしこまった挨拶を続けようものなら、おばあさんは「これはうちの息子がどうかしてしまった!」と勘違いして、
「お鶴! お鶴や! とにかくお医者さまを呼んでちょうだい!」
 と家中が大騒ぎになるだろう。
冗談だよと種明かしをするまでは、誰も安心してくれやしない。
親に心配や苦労をかけるなんて親不孝だ。
うちの家族はこれまでどおり、言葉にしなくても心が通じ合うやり方で十分うまくいっているのだ。
僕はそんな文一君の立場がよく分かるので、かわいそうだなと同情してしまう。
お父さんがあんなふうに何でも「実践」を求める人だから、文一君は少しも息が抜けないのだ。
まわりの大人たちから期待されすぎているせいで、すっかりまいってしまっている。
将来は、銀行の頭取とか、大企業のえらい重役くらいにならないと、お父さんは納得してくれないみたいだ。
でも、それはずっと未来の遠いお話で、今の文一君にとって一番の心配事は、目の前にある学校の成績だった。
クラスの順位をいつも気にしていて、本当に見ていてかわいそうになるほどだった。できることなら二番になって、文一君を一番にしてあげてもいいんだけど、試験勉強のテクニックだけで勝っているようなものだから、うっかり手加減をしたら僕自身が何番まで落ちるか分かったもんじゃない。
あまり順位が下がるとお母さんに叱られてしまう。
それに、文一君には負けても、他の連中には絶対に負けたくないというプライドもある。
一年生の時は文一君が一番だったけれど、二年生からは僕が一番で、文一君が二番という順位でずっと落ち着いているんだ。
文一君のお父さんは、懸賞金を出してでも僕を抜かそうと文一君を応援していた。
「世の中は競争なんだ!
お父さんだって、どうしたらもっといい商品を安く作ってお客さんに届けられるか、そればかりを毎日真剣に考えている。
勉強して他の会社を次々とバタバタと倒していくくらい、面白いことはないんだぞ」
 と、そう教えていたらしい。
ビールを売るのも学問を学ぶのも、世の中の真理という意味では二つに違いはないというわけだ。
だけど、去年文一君が肋膜炎(ろくまくえん)にかかってからは、さすがに諦めたみたいで、
「お隣りはいわば兄弟会社のようなものだから、もう無理に競争しなくてもいい。
しかし、他の連中には絶対に負けちゃいけないぞ」
 と言ったと聞いている。
文一君は長男なんだけど、僕と違って上にお姉さんが二人もいる。
さらに下に弟や妹まで合わせると五人もいるから、家の中はものすごく賑やかだ。
お父さんが家庭の教育にすごく熱心なだけあって、八人の兄弟姉妹みんながそろって成績が良い。
一番上の姉さんは、帝大の助教授のところに嫁いでいった。
一人お嫁に行って減っても、僕の家よりまだ兄弟が一人多いんだから、ただ者じゃないよねとお母さんも感心して同情している。
文一君もお父さんの意思をしっかり受け継いで、弟や妹たちの勉強を見るのを全然サボらない。
僕は今年の夏、その「実地訓練」のすごい現場を間近で見せてもらって、片山家のみごとな準備と段取りに心から感心したんだ。
それは、文一君が年下の兄弟たち全員を引き連れて、みんなで動物園に出かける時のことだった。
電車に乗ると、文一君を先頭にして年齢の順にきちんと席に座ったのは、さすがに長幼の序(年上を敬うマナー)をしっかり守っているなと感心させられた。
「やるなあ。もっとも、これくらいのことは僕の妹たちだってできるけどさ」なんて思っていると、そのうち文一君がポケットから回数券を取り出して、
「桜田本郷町で乗り換えて、上野まで」
 と言って、自分で切符を一枚きっちり切ってもらったんだ。
するとすぐ次に、妹の勝子(かつこ)さんも、
「桜田本郷町で乗り換え、上野まで」
 と言って、やっぱり自分で一枚切らせた。
勝子さんも女学校の二年生だから、自分でそれくらいできるのは不思議じゃない。でも、もっと小さい子供たちの分の切符は、いったい誰が切ってもらうんだろう? と不思議に思っていると、続いて四人の子供たち、なんと尋常小学一年生の喜三郎(きさぶろう)君までが、
「桜田本郷町で乗り換え、上野まで」
 と、つっかえることなくすらすらと言ってのけたのには本当に驚いた。
一人ひとりが自分で回数券をポケットから取り出すのだ。
そのやり方があまりにも手際よくて事務的だったので、電車の車掌さんも満足そうにニコニコ笑っていた。
大人の乗客よりもよっぽどしっかりしていて話が早いと思ったんだろうね。
「どうして君がまとめて切ってあげないんだい?」
 と、僕は思わず聞いてみた。
「子供たちの『自治独立の精神』を育てるためさ。
そのほうが子供たちも自分でできて喜ぶんだよ」
 と文一君は答えた。

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