「大変だな、この調子じゃ2000人を超えるぞ」
と文一くんが言った。
「当たり前さ。
あと2日あるんだから、2500人くらいにはなるだろうね」
「やれやれ、これじゃとても合格の見込みはないや。
1825番か……まるで自動車のナンバープレートみたいだな」
「お互い様さ。
僕の番号なんて、家の電話番号より100番も先だよ」
「こんなことなら、万が一のために『第二志望』の学校も出しておくんだったなあ」
「だけど、田舎の学校へ行っちゃつまらないだろ」
「そりゃそうだけどさ」
「ラジオも聞こえないようなところへ行ったら、時代の流れに遅れちゃう。
石にかじりついてでも一高に入るんだ」
と、僕の決心だけは固かった。
「同感、同感!」
と、このとき太いステッキをつき、ボロボロの服を着て下駄を履いた一高の先輩が、後ろから茶化してきた。
この男はいったいどういうつもりなのだろうか、さっきから受験生たちが並んでいる場所をあっちへウロウロ、こっちへウロウロと歩き回っていた。
おそらく後輩たちを励ますつもりだったのだろうが、僕たちはなんだか気味が悪くなって、急いで停留所へと向かった。
僕はもう他の観察をする余裕なんてなくし、脇目も振らずに受験勉強へと没頭し始めた。
不思議なもので、机に向かっていると「合格できそうだ」という前向きな気持ちになる。
しかし、サボっていると「これじゃダメだ」という不安な気分になる。
しかし、それから2、3日して絹子さんのお父さんが予定通り、絹子さんを東京へ迎えに来ることになったので、僕は少しだけ勉強の息抜きをさせてもらった。
「源太郎や、お前には悪いけれど、絹子さんと一緒に東京駅までお迎えに行ってきておくれ」
とお母さんが小声で言った。
「私一人でも大丈夫でございますよ」
と絹子さんは遠慮したが、お父さんは仕事中だから、僕が代理を務めなければならない。
それに、夏休みに遊びに行けば大変お世話になる大伯父さんの大切な娘さんだ。
「なに、かまいませんよ」
と、僕はさっそくお供をすることにした。
「源太郎さん、私、いよいよ明後日に帰るんですのよ。
ずいぶん長い間、あなたの勉強の邪魔をしてしまいましたわね」
と、絹子さんは道すがら、名残惜しそうにしみじみと語りかけてきた。
「そんなことは少しもありませんよ。
あなたがお帰りになってしまったら、かえって勉強できなくなるんじゃないかと思います」
「どうしてですの?」
「家庭教師の先生が来なくなりますから」
と、僕は日頃から彼女を無意識のうちに利用していたわけではないんだということを、それとなく伝えてやった。「あらまあ、随分ね」
と絹子さんはかなり手厳しいといった様子でした。
「冗談はさておき、今度お出になるときは永久(とわ)の仲ですね。
いつ頃なんですか、式は?」
「オホホ、子どもがそんなことを訊くもんじゃありませんよ」
「来年でしょう?」
と僕はわざと遠い未来を持ち出してみました。
「もっと近いのよ」
「秋?」
「もっと」
「夏?」
「ええ、当たってるわよ」
と、絹子さんは本当は言いたくてたまらなかったのです。
順序を考えれば誰だって当たります。
その日の晩は、お父さんが帰ってくるまで代理として客間へご機嫌をうかがい、しばらく故郷のお話を聞かせてもらいました。
「源太郎さん、すっかり忘れていましたが、去年の秋は久作が上京してきて、えらいご迷惑をかけましたな」
と、絹子さんのお父さんが思い出したように言いました。
「そうそう、もっとあちこち見せてやるつもりだったんだが、猫に紙袋をかぶせたみたいに、おとなしく辞退して逃げ帰っちまったよ」
とおじいさんが笑いました。
「あの人のてんかんは評判のものなんです。
村祭りなんかでも時々ひっくり返るんですから、東京見物なんて無理なんですよ。
私が知っていれば止めたんですが、父は年甲斐もなく時々あんな悪戯をするので困ります」
「その後もう発作は起きませんか?」
と僕は訊いてみました。
「いや、かなり長くおさまっていたんですが、あれからまた癖がついてちょくちょくひっくり返るようですよ。
東京で嫌いな帽子を無理やりかぶせられたのが、いまだに祟っていると言っています」
「お気の毒なことをしましたな」
と僕は、他人のことながらとんだ災難だなと思いました。
「変わりものだなあ」
とおじいさんがため息をつきました。
「変わりものと言えば、久太が死にましたよ」
「まあ! いつの間に」
と絹子さんが驚きました。
これは僕もよく知っている、地元で有名な知的障害の男性です。
「ついこの間のことさ。
あいつについては面白い話があるんだ。
私は以前から知っていたが、本人の稼ぎに関わることだから死ぬまで黙っていたんだよ。
源太郎さんもあの男に一銭銅貨をやっただろう?」
「やりましたとも。
毎日やりましたよ」
「叔父さんもご存じでしょう?」
「知っているとも。
やっぱり一銭銅貨をやったクチだ。
俺の行った頃には二銭銅貨があったから、そっちを喜んだがね」
とおじいさんも昔からの知り合いでした。
「久太は一銭銅貨と十銭の白銅貨を出すと、大きい方が得だと言って、必ず一銭の方を取るんだ。
一円札と一銭銅貨を並べても、紙幣の方には見向きもしない」
「おバカさんですわね。
数の観念が少しもないんですのよ」
と絹子さんが説明しました。
「ところが、ある日のこと私が釣りをしていると、久太も釣竿を担いでやって来たんだ。
私の脇へ腰を下ろしたが、私が一尾釣る間にあいつは二尾も三尾も釣り上げる。
『久太、フナと〇〇(※作中の隠語・比喩表現)と取り替えっこしようか?』と私はからかってみた。
『いいよ。
フナ一尾と同じ大きさの〇〇三尾と取り替えよう』という返事だった。
私は考え込んだよ。
これなら銀貨と銅貨の値打ちはしっかり分かっているはずだ、とね。
それでしばらくしてから、『久太、お前はなぜ銅貨が好きなんだい?』と訊いてみた。
あいつはニヤニヤ笑っている。
『銀貨は気味が悪いと言って逃げて歩くそうだが、一体どこがそんなに怖いんだい?』と畳みかけると、『旦那、これはここだけの話でがんすが、欲しい方を取れば皆もうからかわなくなっちまうから、商売が上がったりでがんす』という返答だったんだ。
『ふうむ』と私は感心して、『よし、決して人には言わないよ』と約束したまま、今まで信義を守っていたのさ」
「ははあ、すると、まるっきりの白痴じゃなかったんだね」
「いや、なんのなんの、『利口な顔をして稼いでも、一日に一両稼ぐのはむずかしい。
馬鹿面をして遊んでいても五十銭にはなる。
どちらが得でがんしょう?』と言ったんだからな。
久太には村の人間はもちろん、近郷近在の者までがすっかり騙されていたわけだ。
どちらが利口なんだか分かったもんじゃないな、ハッハハハハ」
と、絹子さんのお父さんはおかしそうに笑いました。
「くやしい奴ね。
私も五十銭銀貨を持って追いかけてやったことが何度もあったのよ」
と、絹子さんは今更になって悔しがりました。
「やあ、お賑やかですな。
よくお越しくださいました」
と、ちょうどそこへお父さんが帰ってきて挨拶に現れました。
初級翻訳・親鳥子鳥 第41話
佐々木 邦
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