初級翻訳・親鳥子鳥 第36話

佐々木 邦

この間聞いてみたんですが、僕は三越に入るような悪い成績じゃなかったんです」
「もともと進むべき道に進むんだから、今度はもう仕事を変えたりしないだろうね?」
「もう動きませんよ。
ところで叔父さん、あの短冊は叔父さんの句ですか?」
と、ここで芳夫さんは短冊掛けを見上げながら尋ねた。
「これかね? おやおや、来ん年もまめで豆撒き給えかし。
ふうむ、今夜の句だ。
源太郎、お前かい?」
「ええ」
「ありきたりだけど、大いに同感だよ」
とお父さんは褒めてくれた。
「はあ」
と僕はますます恐縮した。
「お元気で結構ですな。
僕は来年もチョコレートを拾いに来ますよ」
「またさっきの娘さんと一緒に拾うのかい?」
とお父さんが言ったところを見ると、お母さんのあいだで絹子さんについてもう何か話が進んでいるように推測された。

縁談観察

新聞には新郎新婦のことがよく載っている。
黒枠(訃報)も拝見するが、こういうおめでたい記事にも一応目を通すものだ。
これも立派な社会観察である。
新郎は必ず大学出の秀才で、新婦は例外なく才色兼備の名媛だ。
前者は大抵、大会社の重役や銀行の頭取の息子で、銀行や会社に勤めている。
後者は普通、地方の大富豪の息女で、女学校卒業後、ピアノか何かのお稽古中である。
「新郎A君は○○銀行頭取○○○○氏の長男、○○大学を十年計画にて卒業したる鈍才、正当ならば就職難、ただし親の威光にて近々○○○○株式会社に勤務の見込、新婦B子さんは○○県○○郡の大富豪○○○○氏の長女、容貌はお化粧をしてようやく人並み、○○市高等女学校を途中退学、目下は実家にて花嫁修業中なれど、継母との折り合いはどうもうまくいかず……」
というような現実の暴露は、決して見受けられない。
みんな才子佳人ばかりなのだ。
ただし、親が町人や農家で肩書がない場合には、新聞社のほうでそれなりにうまく取り繕って書いてくれるのである。「新郎清太郎くんは商科大学を卒業した秀才で、海軍主計監の河野信広氏の甥っ子。新婦の秀子さんは三輪田女学校出身の才媛で、獣医学博士の烏森進氏の姪っ子……」
 といった具合に書かれている。
獣医学とは、博士を懸命に探し出した跡がくっきりと見えている。
息子と娘の結婚ではなく、あえて甥と姪の結婚にしてしまうのだ。
「帝国ホテルでの盛大な披露宴を裏でぜんぶ支える親たちは、単なる縁の下の力持ちをさせられるだけで気の毒だよなぁ。
だけど、何か立派な肩書をつけないと、せっかく紹介してあげても誰も読んでくれないんだ。
やっぱり世間がそういう風に書かせるのさ」
 とお父さんは、こんなどうでもいいことまで必ず社会や世間のせいにしてしまう。
新聞記者が悪いとは決して言わないのだ。
結婚といえば新聞の記事や雑誌の綺麗なグラビア写真で見るものだと思っていたら、まさしく自分の鼻の先でまさにそれが一つ形になろうとしているのには、さすがに驚いた。
僕も案外、気が利かないというか、うっかりしていたものだ。
芳夫さんが才子で、絹子さんが佳人である。
一方はお嫁さんを探していて、四谷の叔母さんが、
「お嫁さんでももらったら、あの子も少しは落ち着くんじゃないかと思って気をつけてはいるんだけど、なかなか良い人って見つからないものよねぇ。
帯に短し襷に長しって、まさにその通りでございますよ」
 とおっしゃっていたことからもよく分かる。
もう一方の絹子さんもまた、結婚の心構えをするために上京してきている。
「しばらくの間預かってやってくれ」と言ってきたのはそのためだったのだ。
芳夫さんのお父さんは、次の選挙では落選間違いなしと言われているそうだが、一応は市会議員という立派な肩書を持っている。
絹子さんの実家は、その県というより村一番の大富豪だ。
こんなふうに条件がぴったり揃った二人が、めでたい節分の晩に顔を合わせただけでなく、豆を拾いながら、まるでしばらく離れられないかのように運命的に絡み合ってしまったのだから、双方の親御さんたちが何も考えないはずがない。
あれ以来、どうやら本格的な縁談の話が動き出したらしいのだ。
あの節分の夜から間もなく、四谷の叔母さんがやって来た。
芳夫さんも一度遊びにやって来た。
普段の芳夫さんは、自分の仕事のことで頭を悩ませている時以外はめったに顔を見せない。
しかし、あの節分の晩の話によると、その仕事の悩みももう完全に解決したという。
いよいよ自分が進むべき本当の道が分かったと言って、心から喜んでいたのだ。
そう考えてみると、この間やって来たときには、きっと別の大きな意味(お見合いの進捗など)があったに違いない。
それに、芳夫さんが来るときはいつも僕が遊び相手として呼び出されるのに、あの日に限って、お母さんは、
「源太郎や、芳夫さんが来ているけれど、お前はいいからあっちの部屋で勉強していらっしゃい。
もう入学試験が近いんですからね」
 とおっしゃって、あらかじめ僕を遠ざけたのだ。
つまり、子どもが出る幕ではなかったのである。
もう一人の絹子さんはどうかというと、表向きは一向に変わった様子を見せない。
その後、鼻を高くする整形(隆鼻術)や目をぱっちりさせる美容整形(美眼術)はすべて諦めをつけて、生まれつきの自然な目鼻立ちでお嫁に行くことに納得したようだったが、歯だけはしっかりと直すことにしたらしい。
お母さんは、人様の大切なお姉さんや娘さんを預かっている身なのだから、もし体に傷でもつけてしまっては申し訳が立たないと思ったのだろう、絹子さんを連れて山口さんのところへ出かけた。
山口さんはお母さんたちのかかりつけの歯医者さんで、ものすごくおちゃめで面白い人なのだ。
「相変わらずお忙しいようですな?」
 とお父さんが訊ねると、
「一日中立ちっぱなしですよ!
眼科の十六倍は忙しい勘定です。
目は二つだけど歯は三十二枚もある。そこを見越して開業したんですから、最初から覚悟の上ですよ」
 と先生は軽快に答える。
この歯医者の先生の診察の結果、絹子さんの前歯の二枚はどうせ長くはもたないから、いっそ削り取って差し歯にするのが一番良いということになった。
それで絹子さんは山口さんの歯医者へ通い始めたのだが、僕はこの一件を知って、二人の縁談が着実に進んでいることを察知したのだった。
ある日、学校から帰ってくると、お母さんが四谷の叔母さんに向けて電話をかけているところだった。
「もしもし、お姉様でございますか? 先日は失礼いたしました。
はあ、はあ、はあ、そうでございますか。
オホホホホ。
まあ、オホホホホ」
 と、大人の女性というのは実にものんびりしたもので、電話越しでもすっかり楽しそうに笑い合っている。
それからお母さんは、急に声をひそめて、こう言った。
「……ここ二、三日か、三、四日ですのよ。
おわかりになりませんか? あらまあ、そうじゃないのよ。
その、何を……芳夫さんを……ですよ。
ええ。
こちらへ寄越さないように、どうぞお計らいをお願いします。
お出かけになられないようにって、ねえ。
えっ。
そうでございますの。

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